音声合成の研究からOSの開発へ
レイモンド・トムリンソンは、1941年にニューヨーク州都オルバニーの北西約24キロに所在するアムステルダムで生まれた。かれの家族はそれからほどなく、20kmほど北部のヴェイル・ミルズという同州の寒村に移り住んだ。トムリンソンは、その近郊のブローダルビン中央スクールに通った。
トムリンソンは1959年に、オルバニー近郊のトロイにあるレンセラー工科大学(RPI)の電気工学部に入学した。かれはIBMが提供する教育コースを受講し、コンピュータを学んだ。かれは63年にRPIを卒業し、マサチューセッツ工科大学(MIT)の電気工学の修士課程に入り音声合成を研究して65年に修士号を取得した。
トムリンソンはその後2年間博士課程に在籍したが、1967年にボールト・ベラネク・ニューマン(BBN)に入り、タイムシェアリングOSの開発チームに加わった。このチームは、MITで58年に人工知能研究を立ち上げたマービン・ミンスキーとジョン・マッカーシーに学び、BBNで人工知能言語のLISPを活用する情報処理環境を整備しようとしていた。
メンバーは、ダニエル・ボブロウ、ジェリー・バーチフィール、ダニエル・マーフィーの3人だった。リーダー格のボブロウは1957年にRPIを卒業し、ハーバード大学で数学の修士号、64年にMITで数学の博士号を取得した後、BBNで人工知能研究を立ち上げた。このチームは音声認識、画像処理、自然言語処理などの研究のために、大きなメモリ容量を仮想記憶で実現し、複数の研究者が同じマシンを同時に対話型で利用する必要があった。
1961年にMITに入学したマーフィーは、DECがMITに寄贈したPDP-1で仮想記憶を実現するソフトウェアを記述し、ユーザーがインタプリタ型言語のLISPを対話型で利用できるようにした。さらに、マーフィーは63年に紙テープのプログラムの修正を効率よく行うために、文字列の検索と置換が可能なテキストエディタのTECO(Tape Editor and Corrector、後にText Editor and Corrector)を開発した。マーフィーは65年にBBNに入り、デジタル・イクイップメント社(DEC)が64年に発表した36ビット語長の大型コンピュータPDP-6に、仮想記憶に必要なアドレス変換機構を組み込むようにDECに提案した。
BBNのタイムシェアリング・システム
1963年に国防省高等研究計画局(ARPA)でタイムシェアリング・システムによるコンピュータ・ネットワークを構想したJ. C. R. リックライダーは、62年9月までの4年間に音響心理学研究所長としてBBNに在籍していた。かれは60年にDECの最初の商用ミニコンピュータPDP-1の1号機を導入し、マッカーシーが61年に提唱したタイムシェアリング・システムの実現にいち早く着手した。
PDP-6は、MITリンカーン研究所で59年に完成したTX-2の設計をベースにしたコンピュータで、1ワードに2つのアドレスを割り当てることができ、16の独立したレジスタを備えていた。ボブロウのグループはPDP-6の導入を望んだが、DECは動作不良が頻発したため23台を出荷して販売を打ち切った。BBNはこのため66年に、サイエンティフィック・データ・システム(SDS)のSDS 940を購入した。
SDS 940は、24ビット語長のSDS 930をタイムシェアリング・システムに改造したコンピュータで、リックライダーがARPAの予算でカリフォルニア州立大学バークレー校に開発を促し64年4月に完成した。このマシンは、英国マンチェスター大学が61年に開発したAtlasコンピュータのページング方式の仮想記憶を参考にして、メモリ保護機能を備えたタイムシェアリングOSを実現していた。SDS 940は約60台製造され、Tymshare社などによるタイムシェアリング・サービスに利用された。
DECは67年9月に、36ビット語長のPDP-10を発表した。PDP-10は、再配置可能なレジスタと内容を保護できるレジスタを、PDP-6の倍の2組備えていた。マーフィーは再びアドレス変換機構を追加するよう要望したが、DECは対応を拒んだ。BBNは68年に出荷されたPDP-10を購入し、アドレス変換機構とタイムシェアリングOSを自前で開発することを決めた。