[インターネット・サイエンスの歴史人物館]

連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(9)ドナルド・ワッツ・デービス

2007/11/13
(火)

コンピュータ・情報通信技術は今日、社会生活においてなくてはならないものになっています。本連載「インターネット・サイエンスの歴史人物館」では、 20世紀初頭に萌芽を見せ、インターネットの誕生など大きな発展を遂げたコンピュータ・情報通信技術の歴史において、多大な貢献を果たしたパイオニア技術者たちの伝記を掲載。やがて「標準技術」へと結実することになる、かれらの手探りの努力に触れることで、現代社会が広く享受している恩恵の源流を探ります。第9回目は、異なるコンピュータ間でタイムシェアリングに匹敵する通信の仕組みを実現する方法として、1965年にパケット通信を独自に考案したドナルド・ワッツ・デービスを取り上げます。

連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(9)ドナルド・ワッツ・デービス

Arpanetに影響を与えたパケット通信の先駆者

英国物理学研究所(NPL)のドナルド・ワッツ・デービスは、米国のタイムシェアリングの研究に接し、異なるコンピュータ間でタイムシェアリングに匹敵する通信の仕組みを実現する方法として、1965年にパケット通信を独自に考案した。デービスが考案したパケット通信は、ポール・バランが1964年に考案した核攻撃に耐性をもつ通信手法と極めて似ていたが、ポール・バランより先にArpanetの責任者ローレンス・ロバーツは、具体的なネットワークの仕組みを「パケット通信」という名称で示した。ロバーツはデービスを通じてバランの業績を知り、かれらの研究成果を採り入れてArpanetを現実に導くことができた。デービスは英国でパケット交換網を構築することを提案したが、中央郵便本局を説得できず、NPLの構内ネットワークをパケット通信で実現するプロジェクトを率い、コンピュータ・ネットワークの研究に寄与し続けた。

物理学者として原爆の戦時研究に従事

ドナルド・ワッツ・デービスは、1924年6月7日にウェールズ南東部の炭鉱採掘地ロンダ・バレー(Rhondda Valley)のトレオーキー(Treorchy)で生まれた。父親は炭鉱の事務員をつとめていたが、ドナルドが生まれた数ヶ月後に他界した。母親は生まれ故郷のポーツマスに戻り、双子の姉妹とドナルドを育てた。ドナルドはこの町の学校に通い、第2次世界大戦勃発後に英国南部の森林地帯ニューフォレストに疎開した高校に入った。  デービスは1941年にロンドンのインペリアル・カレッジに入り、1943年に物理学の学位を取得した。物理学部を主席で卒業したかれは、バーミンガム大学のドイツ人物理学者クラウス・フックス(Klaus Fucks, 1911ー1988)の助手になり、原子爆弾の研究に携わった。  デービスは戦後、1年分の奨学金使うことができたので、インペリアル・カレッジに戻り数学を専攻した。かれは1947年に主席で学位を取得し、ロンドン大学から毎年数学の最優秀学生に贈られるラボック記念賞(Lubbock Memorial Prize)も獲得した。

チューリングとの出会い

デービスはインペリアル大学を卒業する年に、マサチューセッツ工科大学の数理論理学者ノーバート・ウィナーの講義でコンピュータに興味をもつ。次いで国立物理学研究所(National Physical Laboratory: NPL)の数学部門長のジョン・ウォマスリーの講義で、NPLがデジタル・コンピュータを開発していることを知った。かれは、講義が終わるとウォマスリーに、NPLに入所することを希望した。ロンドン近郊のテディントンにあるNPLは、1899年に物理学における測定基準の制定や標準化を担う機関として設立された。

デービスは1947年9月にNPLに採用され、アラン・チューリングのグループに配属された。チューリングは36年の論文「計算可能な数について」で、デジタル計算を自動実行する概念マシンを最初に考案し、第2次大戦中はドイツ軍のエニグマ暗号の解読機を設計して連合国の勝利に貢献した。

ウォマスリーは、1945年2月から5月にかけて米国を訪問してコンピュータを視察し、ジョン・フォン・ノイマンのEDVAC報告書を入手した。戦前からチューリングの業績に注目していたウォマスリーは、帰国直後に報告書をチューリングに見せ、NPLでプログラム内蔵式コンピュータを開発するように促した。チューリングはコンピュータの設計を始め、46年2月に50頁の「ACE開発提案書」をNPLに提出した。この提案は46年3月19日に承認され、数学部門がプロトタイプの「パイロットACE」の開発に着手した。

NPLで働き始めたデービスは、チューリングの「計算可能な数について」を読み、チューリングマシンのプログラミング・エラーを発見して、数学的才能を周りから評価される人材になった。

ACE開発プロジェクト

ACE(Automatic Computing Engine)はプログラム可変内蔵方式だが、高速性を重視してハードウェアをできるだけ単純にし、複雑な処理はプログラミングで行う考え方で設計された。チューリングは、長さが異なる18本の水銀遅延線メモリを活用して、実行開始のタイミング、次に実行する命令までの時間および格納場所を指定して、メモリの遅延を最小化する方法を採用した。水銀の中を音波が移動する速度は、演算装置の数十倍かかるので、メモリ間の転送命令と小数の高速メモリでアドレスをマッピングし、応答のタイミングが異なる複数の水銀遅延線のメモリバンクを切り替えてデータを受け取れば、演算装置の空回りを減らすことができる。さらにチューリングは、プログラム済みの処理を割り込みで取り込み実行し、その後で処理するプログラムを指定するために、LIFO(Last-In, First-Out)のメモリスタックを導入した。

チューリングは1948年5月に、マンチェスター大学の計算機研究所に移籍した。ジェームズ・ウィルキンソンが率いたチームで、デービスらは1950年5月10日にパイロットACEで最初のプログラムを実行した。1MHzのクロック周波数で設計されたパイロットACEは、世界で5番目に完成したプログラム内蔵式コンピュータで、ロンドンでは最初に稼働したマシンになった。デービスは、道路網における交通状況をパイロットACEでシミュレーションするプログラムなどを記述した。

チューリングは1954年6月8日に謎の死をとげたが、ACEは国家プロジェクトとして承認されていたため、開発チームは54年秋に48ビットのACEの開発を始めた。デービスは1955年に、ダイアン・バートン(Diane Burton)と結婚し、その後1女2男をもうけた。1958年秋に完成したフルスケールのACEは1.5MHzで、パイロットACEより1.5倍高速だったが、トランジスタとコアメモリを活用したコンピュータが相次いで開発されるようになり、短命を余儀なくされた。デービスは58年に、ロシア語の技術文書を英語に翻訳するプログラムや手書き文字を認識するプログラムを開発するプロジェクトを率いた。

タイムシェアリングからパケット通信を着想

デービスは、1960年にNPLのコンピュータ・サイエンス部門長になり、英連邦フェローシップを得て64年から65年にかけて米国を訪問し、タイムシェアリング・システムの研究開発状況を調べた。デービスはMITで開催されたセミナーで、J. C. R. リックライダーとMITリンカーン研究所のローレンス・ロバーツと知り合いになった。リックライダーは国防省ARPAで、62年に対話型コンピュータによるネットワーク研究プロジェクトを立ち上げ、ロバーツはARPA支援の2台のコンピュータ間で、プログラムによる自動接続実験に取り組んでいた。

タイムシェアリングは、割り込み処理によって異なるプログラムに、プロセッサの時間を順次割り当て、1台のコンピュータを複数のユーザが共有できるようにする。デービスは1965年に、高度コンピュータ技術プロジェクトの責任者になり、プロジェクトMACやMITリンカーン研究所の研究者をNPLに招き、11月2日と3日にタイムシェアリングのセミナーを開催した。このセミナーには、10月に2台のコンピュータ間でプログラム接続実験を行ったロバーツも参加していた。

デービスは、ロバーツと通信ネットワークの問題を話し合い、電話交換網はタイムシェアリングのデータ送受信に不向きだと気づいた。遠隔地にあるコンピュータから、モデムでダイアルアップして、電話回線経由で別のコンピュータに接続すると、データを送受信している時間はわずかなのに、接続時間の大半が待ち状態になり高額の電話代がかかる。デービスは、電報のように短いメッセージを回線に送り出して、受け手が返事を書く必要を感じた時のみ返信する仕組みが合理的だと考えた。

メッセージを標準的なデータ量に分割して宛名をつけ、電子的な交換機によって時分割多重方式で自動転送させれば、対話型コンピューティングのために回線を効率的に使うことができる。この方式では、短いメッセージを送る人でも、送信中の長いメッセージによって長時間の送信待ちを強いられることなく、公正な通信料金で使用できる。

全英パケット交換網の提案

デービスは1965年12月15日に、「オンライン・データ処理のための全英通信サービスの開発提案」をNPLに提出した。デービスはこの文書で、100kbpsから1,500kbpsの回線を使い、128バイトのメッセージを1秒間に1万扱えるスイッチで、全英をカバーするネットワークを構築できると記した。しかし、NPLには全英通信網を構築する権限はなく、郵便と電話網を管轄しているロンドンの中央郵便本局(Genral Post Office)を説得する必要があった。

デービスは1966年3月18日にNPLでセミナーを開講し、コンピュータ、通信、軍の関係者など約100人の聴講者に、全英パケット通信網の構想を公の場で初めて語った。かれはこのネットワークにより、遠隔データ処理、データ検索、小売業の販売時点における取引記録、機械のリモート・コントロール、オンライン賭博などのサービスを安価に提供できると話した。

デービスの講演を聴いた英国国防省の人物は、米国のポール・バランが極めて似た通信網について1964年に発表していることを告げた。デービスはバランの論文を読み、バランの核攻撃に対して機能を維持する通信経路の冗長性は、自分が考えている民間のデータ通信には必要がないとコメントした。

中央郵便本局は結局データ通信に関心を示さず、デービスは、NPLの研究所のコンピュータを相互接続する構内パケット交換ネットワークを構築することを考えた。そしてかれは、1966年6月に「デジタル通信ネットワークの提案」をNPLに提出して承認を得た。デービスはこの文書で、「パケット」という言葉で、分割したメッセージの断片を表現し、ネットワークとユーザマシンの間に「インタフェース・コンピュータ」を介在させ、パケットをバッファ・メモリに蓄積してから宛先に送り出す蓄積転送型通信の仕組みを記述した。

デービスは、デレク・バーバーをパケット交換の責任者とし、ロジャー・スカントルベリーおよびキース・バートレット、ピーター・ウィルキンソンをメンバーとする設計チームを編成させた。バーバーは逓信省研究所出身の通信の専門家で、スカントルベリー、バートレット、ウィルキンソンはACEの論理設計やソフトウェア開発の経験があった。

Arpanetに影響を与えたパケット通信の理論

開発チームは、この構内パケット交換網の最初の仕様を1966年末に記述してMark Iと名づけた。そして67年に英国プレッシー社が、データ通信向けに設計したコンピュータを導入した。デービスは、パケットを一時的に蓄えるバッファとパケットのルーティングを担う機能は、ユーザのコンピュータの障害の影響を受けないように、独立性を維持する必要があると考えていた。そのため開発チームは、1秒間に約100のパケットを、数ミリ秒の遅延時間でメモリに直接入出力できるハードウェア、そしてバッファの割り当て、パケットのルーティング、自己管理を行うリアルタイムOSの開発に取り組んだ。

スカントルベリーは1967年10月に、米国テネシー州ギャトリングバーグで開催された米コンピュータ学会(ACM)のOSの会議で、デービスのチームが共同執筆した論文「コンピュータの遠隔端末の応答を高速化するデジタル通信ネットワーク」を発表した。スカントルベリーの講演は、ロバーツに衝撃を与えた。ロバーツは、66年12月にARPA情報処理技術部のチーフ・サイエンティストになり、この会議でArpanet計画を発表した。

ロバーツは1967年4月に、ウェズリー・クラークからルーティングを担う外づけのミニコンピュータのアイデアを得ていたが、NPLは、インタフェース・コンピュータの機能を具体的に定義していた。しかも、メッセージを分割したデータ・ブロックをパケットと表現した。ロバーツはスカントルベリーとの会話から、ドナルド・ワッツ・デービスの論文の存在も初めて知った。この会議で、パケット通信の実現を目指していたARPA、NPL、ランドの研究が揃い、ロバーツはArpanetを実現するために必要な概念と実験データを検証することが可能になった。

構内パケット・ネットワーク

NPLの開発チームはプレッシーのミニコンで、パケット通信に必要なインタフェースの開発に取り組んでいたが、コンピュータが1台しかなく、パケット通信の動作検証を行うことができなかった。開発スタッフのロジャー・ヒーリーは、NPLの大型コンピュータICL KDF9でシミュレーション・プログラムを記述し、18ノードのネットワークでパケット交換量と性能の関係を調べながら、プロトコルの設計と評価を繰り返した。

NPLの開発チームは、プレッシーのマシンを約1年間使用した後、米ハネウェル製のDDP-516コンピュータを導入し、デジタル回線ドライバ、ハンドシェイク・インタフェース・ボックス、マルチプレクサー、メモリ入出力チャネルを実装した。

ソフトウェア開発を担当したウィルキンソンは、メッセージ・パッシングとプロセス・スイッチングを担うソフトウェアを記述し、DDP-516は「インタフェース・コンピュータ」の役割を果すようになった。バーバーは、NPLの施設に1メガビット/秒のプライベート・ネットワークを敷設し、1969年前半に、ダム端末間で200パケット/秒のパケット交換に成功した。しかしこのシステムは、1台のミニコンとダム端末の仮想ネットワークを構成したもので、他のコンピュータのリモートサービスを利用することはできなかった。

開発チームは、DDP-516をパケット・スイッチと端末プロセッサに分割して機能するように再設計することにした。新しい設計では、他のコンピュータを接続する入出力ユニットを追加し、パケット交換はコンピュータ間の通信だけに使用し、端末間通信は「端末プロセッサ」によるタイムシェアリングで行うことにした。

ウィルキンソンは、ニクラス・ワースが開発したプログラミング言語PL360をDDP-516に移植し、エズガー・ダイクストラが開発したOSの「THE」に導入された多重プログラミングと階層構造の考え方に沿って、ソフトウェアを再開発することにした。ウィルキンソンの6人のグループは、プロトコルの階層を定義し、MARK IIと呼ばれるネットワークが1973年に稼働した。MARK IIはその後、12台のコンピュータとのパケット通信と、75台の端末をサポートする構内ネットワークとして利用され、リモート・ジョブ・エントリ、文書検索、テキスト・エディタ、四則演算などのオンラインサービスを利用することができた。

晩年のデービス

デービスは1970年代を通じて、NPLのネットワークをArpanetなど国外のネットワークに接続するプロジェクトに関わったが、英国にパケット通信網を構築する当初の夢はかなわなかった。かれは73年に『コンピュータのための通信ネットワーク』を出版し、74年にブリティッシュ・コンピュータ・ソサイエティ・アワードを受賞した。さらに、79年に『コンピュータ・ネットワークとプロトコル』を出版した。

デービスは1979年に管理職的な役割から身を引き、パケット通信網を拡大するには悪用の防止が不可欠と考え、公開鍵暗号によるネットワーク・セキュリティの研究を開始した。かれのセキュリティ手法は、英国の手形交換銀行に採用された。デービスは84年に『コンピュータ・ネットワークのためのセキュリティ』を出版した。かれは1984年にNPLを退職し、その後もネットワーク・セキュリティのコンサルタントとして活動を続けた。かれは自身のパーソナル・コンピュータに、自分が関わった最初のデジタル・コンピュータのPilot ACEのシミュレータを記述した。デービスは2000年5月28日に、オーストラリアで75年の生涯を終えた。

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参考文献

Janet Abbate「Inventing the Internet」The MIT Press 1999

James Gillies, Robert Cailliau「How the Web was BornーThe Story of the World Wide Web」Oxford University Press 2000

Lawrence G. Loberts”The ARPANET and Computer Networks”「A History of Personal Workstations」Edited by Adele Goldberg, ACM PRESS, Addison-Wesley Publishing Company 1988

Edited by B. Jack Copeland「The Essential TuringーThe ideas that gave birth to the computer age」Oxford University Press 2004 所収Donald Watts Davies「Corrections to Turing's Universal Computing Machine」Jack Copeland「Introduction to ”Lecture on the Automatic Computing Engine (1947)」

Roger A. Scantlebury 「A Brief History of the NPL Network」IAP2001 http://www.topquark.co.uk/

Peter T. Wilkinson「NPL Development of Packet Switching」IAP2001 http://www.topquark.co.uk/

Derek L. A. Barber「The Origin of Packet Switching」The Bulletin of the Computer Conservation Society Issue Number 5, Spring 1993 ( http://www.cs.man.ac./CCS/res/res05.htm#f

Roger A. Scantlebury、Peter T. Wilkinson「THE NATIONAL PHYSICAL LABORATORY DATA COMMUNICATION NETWORK」Proceedings of the 2nd ICCC 74, 223-228 ( http://rogerdmoorecaPS/NPLPh/NPL1974A.html )

Derek L. A. Barber「Experience with the use of the British Standard Interface in Computer Peripherals and Communication Systems」( http://delivery.acm.org/10.1145/810000/805246/p271-barber.pdf?key1=805246&key2=7358605611&coll=&dl=acm&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618

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