[インターネット・サイエンスの歴史人物館]

連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(10)フランク・ハート

2007/11/20
(火)
連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(10)フランク・ハート

コンピュータ・情報通信技術は今日、社会生活においてなくてはならないものになっています。本連載「インターネット・サイエンスの歴史人物館」では、 20世紀初頭に萌芽を見せ、インターネットの誕生など大きな発展を遂げたコンピュータ・情報通信技術の歴史において、多大な貢献を果たしたパイオニア技術者たちの伝記を掲載。やがて「標準技術」へと結実することになる、彼らの手探りの努力に触れることで、現代社会が広く享受している恩恵の源流を探ります。第10回目は、パケット通信のための最初のハードウェアとソフトウェアを開発するプロジェクトを率い、ARPANETを現実にするうえで歴史的な役割を果たしたフランク・ハートを取り上げます。

ルータの起源となったIMPの開発者たち

フランク・ハートは、パケット通信のための最初のハードウェアとソフトウェアを開発するプロジェクトを率い、ARPANETを現実にするうえで歴史的な役割を果たした。MITリンカーン研究所からBBNに移籍したかれのグループは、ルータの起源となるIMP(Interface Message Processor)を開発し、1969年にARPANETの最初の4ノードの立ち上げを成功させ、さらに、端末をARPANETに直接接続するTIPを1971年に開発して、ノード数とユーザを急増させた。ハートは、レーダーや地震を電話線経由で遠隔監視する技術のパイオニアであり、ARPANETでは遠隔診断とプログラムのネットワーク配布を実現して、IMPを無人で運用する技術に先鞭をつけた。

MITでコンピュータに出会い、リアルタイム処理の先駆者に

フランク・ハートは1930年に、ニューヨーク市の北部にある町ヨンカーズのユダヤ人家庭で生まれた。父親はエレベータ技師で、息子も電気技師になることを志し、47年にMITの電気工学部に入学した。かれは学期ごとに、仕事と学業に交互に励む労働経験課程を選択した。GEの工場で電力変圧器を検査する仕事に就き、翌年から、発電所やビルの変圧器、発電機、モータなどの設計を経験した。

ハートは、MITが1951年9月に開講したコンピュータ・エンジニアリングの授業に出席して、コンピュータの虜になった。かれは学業に専念する道を選び、翌年に修士課程に進み、ジェイ・フォレスタの研究助手になった。フォレスタは51年3月に、プログラム内蔵式コンピュータのWhirlwindを完成し、空軍基地のレーダー情報をリアルタイム処理して伝達する防空システムの開発を率いていた。ハートは、MITから数ブロック離れたMITデジタル・コンピュータ研究所で、レーダー情報を表示するCRTディスプレイの開発に取り組み、修士号を取得した。

防空プロジェクトは1955年に、SAGEという本番システムの構築に移行し、Whirlwindの後継機XD-1が稼働を始めると、ハートはMITリンカーン研究所に職場を移した。研究スタッフになれるのは、博士号の取得者だった。かれと同僚のウェズリー・クラークは工学修士だったが、研究グループを率いる地位を得た。

ハートは、リアルタイム処理が必要な弾道ミサイル追跡レーダー、原爆の地震探知、潜水艦が発する音波の特定と視覚化などに取り組んだ。かれのグループは、各地のシステムに接続した様々な計測器の情報を電話線で収集して、IBM 709で分析するシステムも構築した。

BBNで医療機関向けコンピュータ事業を担当

ハートは、1965年夏にボールト、ベラネク・アンド・ニューマン社(BBN)から、医療用コンピュータの仕事を監督するように誘われた。BBNは、MITの音響物理学者リチャード・ボルトとレオ・ベラネクにより1948年に音響問題のコンサルティング会社として発足し、J. C. R. リックライダーが61年にDECのPDP-1を導入してコンピュータ事業に進出した。

リックライダーはリンカーン研究所でライトペンの開発に携わり、62年に国防省高等研究計画局(ARPA)に入り、タイムシェアリング・システムによるネットワーク構想を掲げ、研究助成に着手した。BBNはリンカーン研究所の経験者やMITの大学院生を雇い、第3の大学と呼ばれるほどMITの研究所に近い職場環境になっていた。

BBNは1962年にタイムシェアリング・システムを開発し、マサチューセッツ総合病院などの医療機関向けのアプリケーションに取り組んできた。BBNでは、リックライダーの大学院生だったジェリー・エルキンドがシステム開発を率いていた。エルキンドは、DECのPDP-10のタイムシェアリングOSの「TENEX」の開発に忙殺されていた。そのためBBNは、医療用コンピュータ・プロジェクトを監督できる人材としてハートを勧誘した。ハートは166年末にBBNに入った。

ARPANETとネットワーク専用コンピュータ

ハートがBBNに入った頃、ローレンス・ロバーツがARPA情報処理技術部(IPTO)のチーフアーキテクトになった。ロバーツは、リンカーン研究所でTX-2のタイムシェアリングOSを開発し、1965年10月に、西海岸のSDCのQ-32と大陸を横断する専用線でプログラム連携実験を行った。ロバーツは67年4月に、ARPA支援でコンピュータを導入した16の大学や研究所をネットワーク化するため、ミシガン州立大学で責任者による会合を開いた。

会合では、異なる大学の互換性がないマシンの相互通信や大学側のプログラミングの負荷など、問題の提起が相次いだ。TX-2の設計者ウェズリー・クラークは、ロバーツに解決法があるので会議を終えるようメモを回した。クラークは、ネットワーク機能を担う小型コンピュータを各大学に設置して、共通のインタフェースでホストコンピュータに接続すれば、互換性がないマシンを直接接続するより作業が容易で、大学に負担をかけずにARPAが直接管理できるネットワークを構築できる、と話した。

ロバーツが誰がそれをつくれるのかと尋ねると、クラークはフランク・ハートだと答えた。ロバーツは、リンカーン研究所でプログラマをしていたハートの妻ジェーンと同じ職場にいたので、ハートのことは少し知っていた。ロバーツは、ワシントンD.C.に戻って覚え書きを記述し、ネットワーク制御を担うコンピュータを「IMPs(Interface Message Processors)」と名づけ、1967年10月に、テネシー州で開催された米コンピュータ学会でARPANET構想を発表した。

ロバーツは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のレオナード・クレインロックが1966年に出版した『キューイング理論』を拠り所に研究を進めてきたが、この会議で英国物理学研究所のドナルド・デービスとランド・コーポレーションのポール・バランの研究を知り、IMPの仕様設計に取り組めるようになった。そして、UCLA、スタンフォード研究所(SRI)、ユタ大学、カリフォルニア大学サンタバーバラ校を最初のサイトにして、ARPANETを構築することにした。

プロジェクトチームの編成

ハートは1968年春に、アトランティック・シティで開催された春期合同コンピュータ会議で、ロバーツからARPANETの話しを聞き、数ヶ月後に、RFP(提案要請書)を配布する計画があることを知った。ロバーツは68年7月末に、IMPの開発と製造を請け負う企業を募るRFPを140社に送付した。

ハートは8月初めにRFPを受け取り、ハートに続いてリンカーン研究所からBBNに移籍したディビッド・ウォルデンに、必要なソフトウェアを検討させた。

次いで、セヴェロ・オーンスティンにRFPを渡し、翌日にIMPを開発できるか尋ねた。オーンスティンはリンカーン研究所でハートのもとで働き、67年秋にBBNに入り、ハーバード大学の非常勤講師もつとめていた。

エルキンドは、IMPの開発は重要だと認識した。TENEXは、タイムシェアリングと仮想記憶を合体させたOSで、PDP-10で利用できるようになると、IMPと連携してARPANETの一翼を担うことになる。

エルキンドは、ハートに入札の意義を伝え、プログラマのバーニー・コーセルとネットワークの研究者ロバート・カーンをチームに加えるよう薦めた。コーセルは、ソフトウェアのトラブルを短時間で解決することで知られていた。カーンは、ベル研究所で電話のルーティングを研究して、プリンストン大学で1964年に電気工学の博士号を取得し、MITの助教授になった。しかし、理論研究に飽きたらず、工学的なスキルを身につけることを望み、66年にBBNに入った。

提案書の提出期限は4週間後に迫っていた。ウォルデンは、リンカーン研究所のウィル・クラウザーをコンサルタントとして雇うようハートに薦めた。クラウザーは、プログラムを最も簡潔に記述できる手腕の持ち主だった。

IMPの受注

提案書の作成は、ウォルデンがプログラムのフローやタイミングを記したチャートを作成することから始まり、オーンスティンとカーンが、インタフェースなどのハードウェアを設計しながら報告書のまとめ役を担った。かれらは実際に特殊なハードウェアを設計し、リアルタイム処理のプログラムを記述した。カーンは、200頁の手書きの報告書を作成した。ハートは、1968年9月6日にARPAに提案書を提出した。ロバーツは13社から提案書を受け取ったが、レイセオンとBBNが、想定以上の伝送速度を実現できると提案し、最終選考に残った。

ロバーツは提案書の内容を検討する会議を開き、ハート、オーンスティン、クラウザーがワシントンD.C.を訪れた。かれらは、ロバーツの質問に完璧に答えることができた。ロバーツはこの会議の後も電話で質問を続けたが、この対話の過程でBBNのスタッフは、IMPの設計の詳細を固めていくことができた。

発注先は1968年12月23日に、マサチューセッツ州選出のエドワード・ケネディ上院議員からBBNに電報で知らされた。ARPAはBBNをIMPの開発企業に選び、最初の4台のIMPについて100万ドルの契約を交わすことを決めた。

IMPの開発

IMPの1号機は、1969年9月1日までにUCLAに納入することになった。ハートは、クラウザーと、オーンスティンの学生で22歳のベン・バーカーを雇った。またハートは、IMPのプロセッサにHoneywell DDP-516を選んだ。DDP-516は、1.1MHzのクロック周波数で16ビットのデータを32キロワード記憶できるメモリを備え、同クラスのマシンの中では入出力処理が速く、価格も約8万ドルと手頃だった。

BBNは1969年2月初めにDDP-516を発注し、数日後に開発用のマシンが届いた。開発スタッフは当初DDP-516のアセンブラで記述したが、コーセルがタイムシェアリング・システムのPDP-1で、516のアセンブラに変換できるPDP用のアセンブラを作成した。これで複数のプログラマがテレタイプ端末とエディタを使用してプログラムを記述できるようになった。

クラウザーとウォルデンは、パケット処理と経路制御のアルゴリズムの開発を担当し、オーンスティンがホストとの入出力装置、カーンがエラー制御機構とホストとIMPの接続仕様の草案づくりを担当した。クラウザーとウォルデンは、パケットの入出力処理を150行で記述し、経路表の開発に取り組んだ。この経路表は、障害などの回線状況を識別し、パケットを最短距離で送り出す。

IMPの0号機

IMPの開発スタッフと各サイトの研究者と大学院生は、1969年2月14日に約20人による会合をBBNで開いた。ハートはこの会合で、ホストとネットワークの責任を明確に分離できることを説明した。IMPは、メッセージをパケットに分割してバッファに蓄積し、パケットの経路を指定し、パケットが届いたことを確認し、エラーを検出した場合は再送する。そして、届いたパケットをメッセージに組み立ててホストに渡す。メッセージは最大8,063ビット、1個のパケットは最大1,008ビットで、50kbps(1秒あたり約6千の半角文字)の帯域幅で、0.5秒以内にメッセージを伝送する。IMPが読み取るのは、最初の32ビットに記述されたヘッダーだけである。

大学の研究者は、複数のホストをIMPに接続する必要性を指摘した。このため、IMPは4台のホストを接続することになった。カーンはこの会合の後で、各ホストサイトの担当者と連絡を取り、1969年4月にホストーIMP接続仕様書を書いた。

この頃、入出力インタフェースを備えたIMP 0号機がハネウェルから届いたが、プログラムを実行しようとしても動かなかった。インタフェースは実装されていたが、本体は必要な配線変更が施されていなかったので、バーカーが再配線を担当した。

IMPは、誰も保守しない状態で長時間稼働する。ハートは、監視タイマー(watch dog timer)を導入し、ハードウェアの一部で小さなプログラムを定期的に実行し、実行されなくなった時にマシンを再起動することにした。監視タイマーはゼロに向かって進み、プログラムが正常に稼働していると、一定間隔で初期値に戻る。そして、プログラムに異常が生じるとゼロになり、プログラムを除去して停止する。IMPはその後、リレーで紙テープ装置を駆動し、プログラムを再度読み込ませて再始動する。紙テープからの再読み込みは3回行うことができたが、その後は電話をかけて、誰かに紙テープの再設定とIMPの再起動を依頼する必要があった。そのため、初期のIMPには電話機が付随していた。

最初の4ノード

仕様変更を指示したDDP-516がBBNに届いたのは8月半ばで、納入期日が2週間後に迫っていた。しかし届いた516は、本体の結線を変更していなかった。バーカーは、数日でマシンを稼働できる状態にしたが、12時間から40時間稼働すると停止した。オーンスティンは同期システムと割り込みのタイミングに問題があることを突き止め、バーカーが回路を修正して問題は解決した。

IMPは1969年8月30日の早朝に航空機で発送され、午後にUCLAに届けられた。UCLAではバーカーとともに、クレインロックと大学院生がIMPを出迎えた。IMPはボルターホール3階のSDS Sigma-7の側に運ばれ、電源ケーブルを接続して再起動ボタンを押すと、自己診断プログラムを実行した。UCLAで大学院生が開発したIMPとSigma-7のインタフェースを、IMPに接続して経路シミュレーション・プログラムを実行すると、データのやりとりが始まった。

BBNは、2台目のIMPを10月1日にスタンフォード研究所(SRI)に、3台目を11月1日にUCSBに届けた。SRIの研究者は、SDS 940がIMP経由で通信する相手のコンピュータをダム端末に見せかけ、遠隔ログインを可能にするプログラムを書き、10月29日にUCLAのSigma-7から接続できるようにした。BBNは12月初めにIMPをユタ大学に設置し、ハートはIMPの開発チームとともに、12月8日に同大学で開催された通信プロトコルの会議に出席した。

ハートのグループが開発したプログラムは、ホストとIMP、そしてIMPとIMPの間のパケット通信を担当した。しかし互換性がないホストの間で、共通のアプリケーションを利用するための上位プロトコルの仕様は、まだ決まっていない。ロバーツはこの会議でNCP(Network Control Protocol)の要件を確認し、大学院生が形成したNWG(Network Working Group)に仕様策定を任せた。

遠隔診断とソフトウェア配布の実現

1970年3月下旬に、AT&Tが50kbpsの大陸横断回線を敷設し、BBNはARPANETの5番目のノードとなり、次いでMITが接続された。この回線により、西海岸のRAND、SDS、スタンフォード大学、東海岸のハーバード大学、リンカーン研究所がARPANETに加わった。そして、MITとユタ大学を結ぶ2番目の大陸横断回線を含め、70年末には50kbpsの回線が14本に増え、カーネギー・メロン大学、ケース・ウェスタン・リザーブ大学、バロース、イリノイ大学が、合計15台のIMPでARPANETに接続された。

ハートは、BBNがARPANETに接続されると、IMPの遠隔診断と遠隔保守の実現に着手した。かれは、完全な無人運用こそが、信頼性を向上させる鍵になると考えた。ネットワーク障害を克服するには、その原因がIMPかモデムか回線かを特定する必要がある。ハートは、IMPに運用状況を送信させる「アクティブ・レポート」機能と、プログラムを隣接するIMPから読み込む機能を組み込んでいた。また、IMPの障害を確認して、ネットワークから隔離する仕組みも実現していた。

ハートは、BBNのIMPにテレタイプ端末を接続し、障害を通知する警告ランプと音響通報機を取りつけ、各IMPからパケット処理量やエラー発生の有無を15分おきに収集できるようにした。そして、障害が発生すると「ループバック・テスト」を実施して、問題がIMPにあるのかどうかを調べた。このテストは、IMPの出力と入力を直結して、試験データを送信してエラーなしに戻ってくるかどうかを確かめる。問題なく試験データが戻ってくれば、問題はIMPの外側にある。IMPに問題があったときは、ネットワークから切り離し、回線の障害を調べた。BBNでは、このデータを分析する仕事を、ネットワーク・コントロール・センター(NOC)と呼んだ。

次いでハートのグループは、IMPの0号機のDDP-516を監視用のコンピュータにして、各IMPからの報告を1分おきに受信し、報告が3分間NOCに到着しないとIMPが停止状態にある、と警告させた。かれらはソフトウェアの改良を繰り返していたので、ネットワーク経由で全IMPのプログラムを更新する時間が必要だった。

ハートは、毎週火曜日の午前7時から2時間ネットワークの運用を休止し、プログラム更新と保守を行うことを決めた。IMPは、不具合が生じるとメモリからプログラムを除去して再起動し、隣接するサイトのIMPからプログラムを読み込む。ハートのグループはこの仕組みと休止時間を利用して、BBNにおけるプログラムの更新をすべてのIMPに、次々反映させることができた。

TIPの開発とARPANETの拡大

ハートのグループとロバーツは、ホストを介さずに多数の単純な端末からARPANETに接続する方法を1970年末から検討していた。研究者だけでなく、ARPAの役人、軍人、学生もARPANETを利用できるようにする必要があった。BBNはDDP-516の小型版DDP-316をベースに、最大63台の端末を接続できる回線コントローラを備えたTIP(端末IMP:Terminal IMP)のプロトタイプを71年半ばに製作した。

1970年12月に仕様が決まったNCPが各サイトで実装され、相互運用性が71年10月に検証されると、ロバーツは1年後にワシントンD. C.で開催されるICCC(International Conference on Computers and Communications)で、ARPANETを公式に披露することにし、カーンに準備を委託した。

会場のヒルトンホテルでは、ハートのグループにより、1台のTIPに40台以上の端末装置が接続され、各サイトの大学院生は端末からホストにアクセスしてみせた。1973年1月にはARPANETは20台のIMPと15台のTIPで35ノードを形成していた。

フランク・ハートは、1970年代を通じてARPANETの改善に携わり、BBNのシステム&テクノロジー・グループのプレジデントになった。かれはその在任中に、空軍の科学諮問委員、医療や教育関連の政府機関のコンサルタントなどをつとめながら、1995年までBBNで働いた。ハートは2001年に、マサチューセッツ州電気通信評議会(Massachusetts Telecommunications Council)から、インターネットを現実にしたチームのリーダーとして栄誉の殿堂(Hall of Fame)に選定された。

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参考文献

「Frank Heart Interview」by CARIBINER GROUP on August 22, 19944( http://ia331341.us.archive.org/2/items/BbnFrankHeartInterview082294Tape20/BBNIS.txt

Severo M. Ornstein「COMPUTING IN THE MIDDLE AGESーA View From the Trenches 1955-1983」1stBooks 2002

Katie Hafner and Matthew Lyon「Where Wizards Stay Up Late」Simon & Schuster 1996:邦訳「インターネットの起源」アスキー、2000

Loe Beranek「Roots of the Internet: A Personal History」( http://www.historycooperative.org/journals/mhr/2/beranek.html

http://vlsi.byblos.lau.edu.lb/classes/coe561/archive/spring2001/net-01-intro-4up.pdf

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