ラジオ少年からMIT大学院に
クラインロックは1934年6月13日に、ウクライナ移民の息子としてニューヨーク市で生まれた。クラインロックは6歳の時に、「スーパーマン」の漫画本で鉱石ラジオの制作方法の記事を見て早速、カミソリの刃、電線、イヤホンなどを入手した。次いで母親とラジオ部品店を訪れ、適切なバリコンを入手した。組み立てたラジオは、電池がなくても音楽を受信できた。クラインロックはその後、廃棄ラジオの部品で様々なラジオを作った。
かれはブロンクス科学高校に入り、電気工学を学んだ。1951年に高校を卒業したが、家庭が貧しく電気店の技師になり、ニューヨーク市立大学の夜間コースで電気工学を学んだ。かれは57年に大学を主席で卒業し、MIT電気工学部の大学院に進学する奨学金を得た。
当時のMIT電気工学部では、クロード・シャノンが1956年から母校のMITで教え始め、情報理論の研究がブームになっていた。クラインロックは59年に修士号を取得し、博士課程で電話交換網の問題を調べ、マルチノードの通信ネットワークにおけるノードの記憶容量、ノードの帯域幅、メッセージ伝送で発生する遅延の関係を数学的に解明しようと考えた。
待ち行列理論の研究
クラインロックがパケット通信のアイデアに到達する過程は、提供されるサービスに対する待ち行列理論(queueing theory)の問題を扱う確率論の適用範囲を拡張する試みから始まる。かれは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のジェームズ・ジャクソンがオペレーションズ・リサーチ誌で1957年8月に発表した「待ち行列のネットワーク」を読み、この領域を研究テーマに選んだ。
クラインロックは、コペンハーゲン電話会社で、電話交換の問題を確率論で定式化したアグナー・クラルプ・アーラン(1878-1929)の研究以来の、電話交換における交換手の応答待ちと接続待ちや、応用数学における待ち行列理論の問題の文献を調べた。20世紀初頭の電話は、地域交換局から複数の村に幹線を敷設し、1本の幹線に個々の家庭の電話線がつながっていた。幹線とはいえ、誰かが通話中だと電話をかけても話中音しか聞こえない。電話の利用者が増えるにつれ、電話はつながりにくくなった。
アーランは、許容されるサービス品質と幹線の数と交換手の数の関係を考え、電話回線の混み具合、交換手の数、サービス品質の関係に、ポアソンの確率論が適用できるか調べた。フランスの数学者シメオン・ドニ・ポアソン(1781-1840)が1837年に導いた確率論は、短い単位時間に発生する事象の平均回数から、所与の時間に事象が何回発生するかを求める法則を導いていた。アーランは1909年の論文で、ランダムに発生する通話要求にポアソン分布を適用して、通話要求が発生する確率は時間ないし空間内において一定になることを示した。
クラインロックが注目したジャクソンの研究は、異なる加工装置を複数台備えた部門がいくつか併存する工場内で、個々の部門の待ち行列をを最適化する研究をしていた。かれは、複数の部門がそれぞれの待ち行列をもつ環境で、ポアソンとアーランの確率論が適用できるか調べた。そして様々な場所から、仕事が1つの窓口に到着する確率と、1つの窓口でサービスに要する時間は、ポアソンの単位時間あたりの事象の発生率と平均サービス時間に従うことを示した。
コンピュータ網でメッセージの測定を可能にする法則
クラインロックは、コンピュータ網のノード間におけるメッセージの交換の確率分布を分析しようとした。その結果がポアソン分布に従えば、そこからノードを結ぶ回線の帯域幅、ノードのメモリ容量、ノード間の遅延時間、渋滞が発生する状況、ネットワーク性能の最適化などの条件を導ける。かれはメッセージにアドレスを付与し、回線が空いている状態で行列に残るメッセージはないという条件を加えた。ポアソンは、所与の間隔でランダムに発生する事象を数える確率変数Nをもつ確率分布で、短い単位時間中に平均λ回発生する事象について、所与の時間に事象が何回発生するかを求め、次のような関係を導いた。
・λ(ラムダ):単位時間あたりの事象の発生率、 1/λ:事象の発生間隔
・μ(ミュー):1つの窓口の平均サービス率、 1/μ:窓口の平均サービス時間
・ρ(ロー):ρ=λ/μ 窓口が1つの時のサービス利用率、ρ=λ/(μ・s) 窓口が複数の時のサービス利用率(s=窓口の個数)
クラインロックのネットワークでは、平均λ/μビット/秒のデータが平均λの頻度でキューに入り、総帯域幅C/Nビット/秒のチャネルが空き次第送出される。メッセージの長さにはばらつきがあるが、長さの平均は1/μビットになる。チャネルが空いた時に、チャネルをメッセージが通過する平均時間はN/μCになる。そして、キューにおける待ち時間は、1/(1ーρ)μCになる。そこで、このネットワークの利用率ρ=λ/μCが導かれ、λ/μは総帯域幅Cのうちで使われた容量になる。
これにより、1秒間にノードのキューに入るメッセージの平均数はλ、メッセージの平均長は1/μ、1秒あたりにノードの入る平均ビット数はλ/μになる。λ/μは総帯域幅Cより小さいため、ネットワークは各ノードの入力を問題なく扱え、メッセージはアドレスに到達した時点でネットワークを離脱するので、ネットワークは安定状態を維持する。1/μビットは、メッセージを分割してネットワークに送り出す基準値を提供し、ネットワークの設計者は、メッセージがノードに到着してからサービスを受けるまでの待ち時間の値を広い範囲で検討できる。
ARPANET構想と蓄積交換型ネットワーク
クラインロックはこの研究成果を、1961年5月31日に「大規模通信ネットにおける情報の流れ」の表題で提出した。この論文は7月24日に研究論文として認可されて、MITの季刊誌に発表され、コンピュータ網におけるメッセージの流れの分析に役立つ法則を最初に示した。かれはデジタル・ネットワークの研究を続けて63年1月に博士号を取得し、UCLAで教職を得た。クラインロックは64年に、「コミュニケーションズ・ネッツ」を出版して、分割したメッセージをノードのキューに一時的に格納して宛先に転送する「蓄積交換型ネットワーク」(パケット交換型ネットワーク)の基本原理を示した。
クラインロックの研究は注目されなかった。しかし、J. C. R. リックライダーが国防省高等研究計画局(ARPA)でコンピュータ・ネットワークを構想し、1963年7月から2ヶ月間、MITに57人の研究者を集めて夏期研究会を開催してから状況が変化し始める。かれはネットワーク構想の実現に協力する研究者を選び、コンピュータの導入資金を助成した。リックライダーは64年7月に、自分の後任としてクラインロックとMITで同時に博士号を得たアイヴァン・サザランドを選び、ARPAを去った。
サザランドは1965年7月に、MITリンカーン研究所のローレンス・ロバーツに、ロサンゼルスとボストン郊外の2台のコンピュータ間でプログラムの大陸横断接続実験を委託した。ロバーツは親友のクラインロックの助言を得て、65年10月に実験を実施し、翌年10月の米連邦情報処理学会(AFIPS)で、互換性がないコンピュータのプログラムを相互接続するには「標準プロトコル」が必要になることを指摘した。
サザランドは1966年6月に、リックライダーの構想を現実に導ける人材はロバーツしかいないことを、後任のロバート・テイラーに告げARPAを去った。66年12月にARPA情報処理部のチーフ・サイエンティストになったロバーツは、クラインロックの蓄積交換型ネットワークによるARPANETの実現に着手した。かれは67年4月にミシガン州アナバーで、ARPAが助成している16の大学の責任者と、コンピュータを相互接続する検討会を開催し、ウェズリー・クラークから、蓄積交換型のネットワークを小型の専用コンピュータで形成するアイデアを得た。
ARPANETの最初のノード
ロバーツは、IMP(Interface Message Processor)とネットワークの仕様を設計し、1967年10月に、テネシー州ギャトリングバーグで開催された米計算機学会の会議で、ARPANET計画を発表した。かれはこの会議で、英国物理学研究所のドナルド・デービスとランド・コーポレーションのポール・バランの研究を知り、クラインロックの理論を発展させて、ARPANETの詳細を設計できるようにした。
ロバーツは1968年6月に、ARPANET計画を実行に移す承認を得て、ネットワーク計測センターの設立を主張していたUCLAを、最初のノードに選んだ。かれは次いで、最初の実験的なノードは、相互に近い位置にある西海岸の大学で構成することにし、スタンフォード研究所(SRI)、ユタ大学、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)を選んだ。
ARPAのロバート・テイラーはこれに先立ち、ARPANETに若手の研究者を動員するため、助成先の大学の責任者に、イリノイ大学シャンペーン・アーバナ校で開催する会議に大学院生を2人ずつ参加させるように要請していた。イリノイ大学のアラートン・カンファレンス・センターで開催された3日間の会議には、UCLAから23歳のスティーヴ・クロッカーとヴィントン・サーブが参加した。ロバーツはこの会議でARPANET計画を説明し、ネットワークに接続された種類が異なるコンピュータを互いに対話させるホスト間プロトコルについて考えるように促した。
ロバーツはワシントンD. C.に戻ると、IMPの基本要件を記した要望書を書き、1968年7月末にIMPの開発と製造を請け負う企業を募るため約140社に発送した。ロバーツは68年12月にBBNに最初の4台のIMPを発注し、1号機をUCLAに納入する期日を69年9月1日に定めた。
ネットワーク測定センターとNWGの発足
クラインロックは1968年10月に、ARPA情報処理技術部と年間20万ドルの予算で、ネットワーク測定センターを設立する契約を交わした。かれは、ネットワーク全体の応答性、パケット送受の頻度と遅延、伝送速度と容量などのデータを収集して統計的に解析して、適切な帯域幅やIMPの処理能力を予測しようとしていた。測定センターの仕事を手伝う仕事に、40人の大学院生と学生が志願した。
クロッカーは1968年夏に、ARPANETの最初の4つのノードに関係する大学院生の会合をUCSBで開いた。この会合にはUCLAのクロッカーとジェラルド・デローシュ、ユタ大学のスティーヴ・カー、SRIのジェフ・ルリフソンとロバート・ドゥヴァル、UCSBのロン・ストウトンが参加した。かれらはその後、ネットワーク・ワーキング・グループ(NWG)と称し、コンピュータ・ネットワークの若手研究者によるコミュニティを形成していく。
BBNは1969年2月14日に、4つのノードの責任者とNWGのメンバーにIMPの仕様を説明し、BBNのロバート・カーンが69年4月に、ホスト-IMPの接続仕様書を書き上げた。クロッカーはその直後に、「ホスト・ソフトウェア」と題したメモを書き上げ、「Request for Comment: 1(コメント募集:1)」という副題をつけて、4月7日にNWGのメンバーに発送した。かれはRFC3で、RFCの記述ルールを記し、RFCの基本原則は「誰もが自由に発言でき、これが公式見解であるというものがない」であり、「ルールを守りさえすれば誰でも歓迎される」ことを明示した。
この当時、UCLAはSDSのSigma 7でSEX(Sigma Experimental System)という自作のタイムシェアリングOS、SRIはSDS 940で、UCバークレー校で開発されたGenieタイムシェアリングOS、UCSBはIBM S/360で、多重処理のOS/MVTあるいはOS/MFT、ユタ大学はDEC PDP-10で、BBNが開発したタイムシェアリングOSのTENEXを使用していた。
命令セットやOSが異なるコンピュータをどう対話させるのか、という問題が立ちはだかっていた。
UCLAの大学院生の活躍
一方、クラインロックは、IMPをホストに接続するため、ハードウェア・インタフェースを用意する必要があった。かれはSDSにその製作を打診したが、SDSは19,000ドルの費用を要求し、しかも1969年9月1日には間に合わないと返答した。大学院生のマイク・ウィングフィールドは、5,000ドル程度のコストで6週間で作れると申し出、5週間半かけてインタフェース・ハードウェアを完成させた。
クラインロックは1969年8月30日の午後に、空輸されたIMPを、クロッカー、ウィングフィールド、ヴィントン・サーフ、ジョン・ポステルとともにUCLAのボルターホールで受け取った。IMPは3階の3400号室に運ばれ、Sigma 7のそばに設置された。IMPは電源を入れると自己診断プログラムを実行して、すぐに稼働できる状態になった。
ウィングフィールドが、ホストとIMPをインタフェース・ハードウェアで接続し、BBNのベン・バーカーが、テレタイプを操作してSigma 7宛てのメッセージをIMPに送信すると、インタフェース・ハードウェアが、ビットのシーケンスを点滅ランプで表示し、すぐに同じメッセージをテレタイプの印字装置から出力した。これは自分宛にメールを送るような操作だったが、パケットが流れ処理されることが確かめられた。
2台目のIMPは、10月1日にメンローパークのSRIに届けられ、350マイルの専用線でUCLAのIMPと接続された。UCLAとSRIの最初の接続実験は、10月3日に行われた。初期のIMPには、保守用の電話機が備わっていた。UCLAの学生チャーリー・クラインはSRIの担当者に電話をかけ、「LOGIN」のメッセージを1文字ずつキー入力して、相手に電話で伝わったかどうか確かめようとした。まず、Lをタイプすることを電話で伝え、相手の応答を待った。SRIは、Lの8進表記の符号「114」を受け取ったと返答した。次いでOをタイプすると、SRIは「117」の受信を確認した。
しかし、Gをタイプした時、SDS 940がダウンした。このため、ARPANETが機能していることを示すことに、最初に成功したメッセージは「LO」になった。SRIの研究者はプログラムを数時間かけて修正し、その後は問題なくログインできるようになった。
しかしこの実験は、パケット通信ネットワークで従来から可能だった遠隔ログインを行ったにすぎない。NWGのメンバーは、ホスト間プロトコルについて思案を重ねつつも、具体案は示せなかった。3台目のIMPが11月1日にUCSBに届けられ、12月の初めにユタ大学にも設置される。ロバーツは、11月末にカリフォルニアの3つのノードを視察し、12月8日にユタ大学で、NWGとBBNの技術者によるホスト間プロトコルについて会議を開催することにした。
ARPANETの離陸
クロッカーはユタ大学の会議で、遠隔ログインを可能にするTelnetおよびFTPを実現することを提案することにした。Telnetでは、接続を確立して使用する文字コードの違いなどを乗り越える必要があり、FTPでは、転送するファイル形式を定義する必要があった。しかしロバーツは、2台のコンピュータが対称的に協調動作するためのプロトコルを求め、何が必要かを黒板で示した。
その後、ユタ大学のカー、クロッカー、サーフが中心となって、ホスト間プロトコルの仕様を策定する作業を続け1970年の夏にプログラム開発に目途をつけ、12月に仕様が承認された。この仕様はNetwork Control Protocol(NCP)と命名され、ARPANETの各ノードに配布された。
1971年10月にMITで、各ノードで実装されたNCPの相互接続実験が行われ、15のノードが1日3,000万パケットを処理できるARPANETを有効に活用できるようになった。この当時、UCLAのネットワーク測定センターが計測した1日の平均パケット数は675,000ほどで、ARPANETの容量の2%強でしかなかった。
BBNは1971年秋に、63台のテレタイプ端末をARPANETに接続できるTIP(端末IMP)を完成させた。BBNは、端末からTIP経由で多種類のコンピュータにログインするために、71年にアレックス・マッケンッジーをNWGに参加させてTelnetの開発を主導させ、約1年で完成した。また、FTPは69年8月にMITからNWGに参加したアベイ・ブシャンが中心になって開発を進め、72年7月2日に仕様を完成させた。初期のNWGが69年の夏に開発目標にしたTelnetとFTPは、ARPANETの利用を拡大する上で重要な役割を果たした。
情報ハイウェイとノマディック・コンピューティング
クラインロックは、キューイング理論の第1人者として、200以上の論文と6冊の書籍を出版した。クラインロックは1986年に、米政府の科学諮問委員会ナショナル・リサーチ・カウンシル(NRC)でコンピュータ・サイエンス・アンド・テレコミュニケーションズ・ボード(CSTB)の議長となり、「全米研究ネットワークに向けて」という報告書をまとめた。アル・ゴア上院議員はこの報告書に注目し、ギガビット・ネットワーク・アライアンスが形成され、高速データ転送の技術標準の確立を促した。
この報告書は、クリントン政権における情報ハイウェイ構想の指針となり、通信基盤の整備がその後急速に進むことになる。クラインロックは1994年に、CSTBの報告書「情報未来の実現:インターネットを超えて」をまとめ、米議会下院小委員会で全米情報基盤(NII)の重要性を訴えた。
クラインロックは、無線通信の応用技術の可能性に関心をもち、1995年にノマディックス社(Nomadix Inc.)を創業した。かれは、ホテルや空港において、無線LANによるインターネット接続と、課金やチェックアウトなどのサービスをオンデマンドで提供する事業を開始した。ノマディックス社は、環境が移動中の利用者を識別して、必要なサービスを提供するというビジョンを追求し、2000年7月に1,700万ドルの資金をベンチャーキャピタルから得て注目された。この企業は2006年12月7日に、アジアと中東のホテル向けにインターネット・サービスを提供しているシンガポールのマジネット(MagiNet)に買収された。
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参考文献
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RFC 2555 ”30 Years of RFCs」1999年4月7日
M. Mitchell Waldrop「THE DREAM MACHINE: J. C. R. Licklider and the Revolution That Made Computing Personal」VIKING published by the Penguin Group, 2001
Lawrence G. Roberts「Internet Chronology」 http://www.ziplink.net/~lroberts/InternetChronology.html
「30 years of RFC」 http://rfcsunsite.dk/rfc/rfc2555.html
「NCP--Network Control Program」 http:/www.livinginternet.com/i/ii_ncp.htm
「RFC 1000: REQUEST FOR COMMENTS REFERENCE GUIDE所収”THE ORIGINS OF RFCS by Stephen D. Crocker 」August 1987 http://rfcsunsite.dk/rfc/rfc1000.html
Leo Beranek「Roots of the InternetーA Personal History」 http://www.historycooperative.org/journals/mhr/2/beranek.html