≪1≫ユビキタス社会を取り巻くネットワーク・サービスの将来像
次世代ネットワーク(NGN)が構築されたユビキタス社会を実現するには、セキュリティ(安全性)を確保しつつ、用途に応じたモビリティ(移動性)を実現する必要がある。これまでに8回にわたって、そのようなユビキタス社会を実現するための技術について、専門家の皆さんに概要と展望を説明いただいた。ここでは、その全体像をレビューしてみよう(図1)。
〔1〕モバイル・ネットワーク
本連載の第2回では、家庭や企業でのネットワークとして無線LANの動向とセキュリティの課題について、アルバネットワークス社の小宮氏に解説いただいた。無線LANはIEEE802.11として国際規格化され、世界中で利用されている。とくに、コンシューマ向けの機器では、ゲーム機や音楽プレーヤなどでも利用されている。しかし、企業向けではセキュリティへの懸念から導入を足踏みする会社や団体が日本では未だ多い。小宮氏が解説しているように無線LANのセキュリティへの対応は、標準規格およびメーカー独自の対策も含めてかなり充実してきている。今後は、さらにパソコン以外の機器への無線LANの実装が増えるであろう。日本だけが、セキュリティに対して過度な懸念をしていては、世界の潮流から乗り遅れ、本当にガラパゴスになりかねない。無線LANのセキュリティについては、正しい理解と利用方法の啓蒙が重要であろう。
第3回では、広域でのブロードバンド・ワイヤレス・ネットワークとして、モバイルWiMAXの動向について、OKIネットワークス(現所属)の林氏が解説した。IP(インターネット・プロトコル)を用いたNGNによるサービスは、いつでもどこでも利用できるということで、「ユビキタス・サービス」と呼ばれることが多い。しかし、本当に「いつでもどこでも」か、というと課題も多い。少なくとも、自動車や列車の中など移動中にはインターネットへアクセスできない、ないしはアクセスできても通信速度が遅く、品質も悪いというのが現状だろう。このような現状を打破するのが、モバイルWiMAXやXGP(次世代PHS)、LTE(Long Term Evolution)である。ただし、ブロードバンド・ワイヤレス・ネットワークを安全に利用するには、林氏が主張するように無線区間のセキュリティだけではなく、接続する環境に応じたファイアウォールの設置などが重要になるだろう。
第4回では、自動車交通分野でのICT(情報通信技術)利用の観点から、DSRC(Dedicated Short Range Communication、専用狭帯域通信)を利用したITS(高度道路情報交通システム)の例と、ITSにおけるNGNの価値についてOKIの中ノ森氏が解説した。現在、自動車の中でのコミュニケーションは、運転中の通話やメールが禁止されるなど制約事項が多い。これは安全面からすると止むを得ない点はあるものの、ネットワークを活用することでより安心・安全かつ快適・便利になることもあるだろう。中ノ森氏が主張しているように目的別に利用する技術を選択した、賢いITSシステムの実現が望まれる。
第5回では、センサー・ネットワークの視点で近距離無線通信「ZigBee」について、OKIの福永氏が技術動向とセキュリティへの取り組みを解説した。センサー・ネットワークは、NGNや企業・ホームのネットワークの末端において、実社会のリアルな情報を認識する触覚および神経網の役割を果たす。したがって、より小さく、安くという要求条件がある中で、より安心・安全にというセキュリティのニーズを満たすことが重要である。
〔2〕コンテキスト・アウェアネス
第6回、第7回、第8回では、状況に応じたセキュリティ機能を提供するための「コンテキスト・アウェアネス・セキュリティ」という概念と実現例について、情報セキュリティ大学院大学の田中英彦氏とOKIの松平氏、保田氏に説明いただいた。最悪の事態ばかりを想定し、ネットワークに高いセキュリティ機能を要求し、過度なセキュリティを利用者に課しては、モビリティの利便性は損なわれる。そこで、必要になるのは、利用者の属性や利用する環境や状況に応じたセキュリティ機能を選択することである。そのためには、状況をより正確に把握して利用者の置かれた状況を推定し、的確な行動を指示するかが重要になる。コンテキスト・アウェアネス技術のセキュリティ分野への適用は、まだ実用化研究の段階ではあるが、ユビキタス社会の実現のうえでは必要不可欠な技術になるであろう。
〔3〕ネットワーク・サービス
これまでは、ネットワークにおいてモビリティを実現するための無線技術と、利用者の環境に応じたセキュリティの実現について、専門家の皆さんに説明いただいた。しかし、第4回の中ノ森氏や第7回の松平氏も説明しているように、提供するサービスの内容、すなわち交通分野での安全確保や医療分野での人命に関わるサービスと、利便性も求めるサービスとでは自ずと提供するセキュリティの機能も変わってくる。今後のネットワークを利用したサービスは、ネットワークの向こう(端末から見て)やネットワーク内のサーバから提供されるSaaS(Software as a Services)やPaaS(Platform as a Services)、HaaS(Hardware as a Services)などが増えてくるだろう。これらのサービスはネットワークを雲(クラウド)に見立てて「クラウド・サービス」とも呼ばれる。すなわち、サービスは雲(クラウド)の合間から光が射すように提供される。このとき、提供するサービスに応じたセキュリティ機能の提供も今後は重要になるだろう(図1)。
≪2≫テレワークの可能性と社会的な課題
NGN時代のユビキタス社会の展望と課題について、具体的な利用場面を想定して考えてみよう。少子高齢化が進み、育児や介護などに割く個人の生活の時間が重要になっている。また、それだけではなく社会・経済の不安定さからワークシェアなど、より柔軟な働き方が求められている。このような社会的な動向から、「テレワーク」への期待が高まっている。テレワークの実現のためには、正に「いつでもどこでも、安心・安全に生活し、仕事ができる環境」が必要であり、そのためにNGNは重要な役割を果たすだろう。
これまでの8回にわたって紹介してきた技術は必要な時期は異なるが、テレワークの実現においても重要である。しかし、テレワークというアプリケーションを考えたときに、モビリティとセキュリティのバランスの観点から、未だ語られていない課題について考えてみよう。
〔1〕ネットワークの透過性
まず、技術的な課題としては、「VPNのNAT越え問題」がありる。VPN(Virtual Private Network、仮想専用線)を用いて、家庭のパソコンや出張先のホテルのLANから会社へ接続する場合、家庭のパソコンのUPnP(Universal Plug and Play、家庭内の機器をネットワークを介して相互接続するための技術仕様)やNAT(Network Address Translator、ネットワーク・アドレス変換装置)、ホテルのファイアウォールと会社のファイアウォールが透過できる設定にしなければならない。
NATを越えるためには、技術的にはいくつか方法がある。この「いくつか」あることが問題である。一般の利用者は技術の専門家ではないので、利用されているルータと自らのパソコンを適切に設定するには「いくつか」の方法を試行しなければならない。また、この設定は、利用するアプリケーション(音声通信か、データ通信かなど)によっても異なる。したがって、VPNを簡単に利用するための障壁になっていると考えられる。
そこで、次世代のネットワークでは利用者を適切に認証し、端末から企業までを確実に接続するVPN技術が必要になる。具体的な方策としては、IPsecなどのプロトコルを用いたトンネリングを行う方法がある。トンネリングとは、まず接続したいネットワーク間で暗号化された通信路を形成し、その中に各種アプリケーションを通す技術である。こうすることで、アプリケーションごとに異なる設定をする必要はなくなる。また、端末間で通信路を形成する方法としてP2P(Peer to Peer)通信(対等通信)方式を用いる方法もある。P2Pというと、セキュリティを破る技術のように思われる人もいるが、端末と企業を生体認証や企業固有の認証によって信用関係を確立することにより、ネットワークを透過的に伝送することが可能になる(図2)。
〔2〕企業秘密、プライバシーの保護
自宅で仕事をする場合は、技術の問題だけでなく、企業秘密や個人のプライバシーをいかに保護するかが重要である。例えば、仕事をする環境は社内とは異なり、周囲がどのような状況であるかわからない。そのため、重要な企業秘密や顧客情報が漏洩しないように配慮することが重要である。解決手段としては、端末にシンクライアント(機能を絞った低価格のパソコン)を用いてパソコンに情報が残らないようにすることや、映像を用いて周囲の環境を確認するケースもある。しかし、家庭側にカメラを設置する場合は、個人のプライバシー問題に触れるケースもあり、本人の承諾を得るなどの対応が必要である。
〔3〕ワークライフ・バランス
また、「いつでもどこでも仕事ができる」ことはよいことばかりではない。過度な残業によりプライベートな時間が減り、豊かな社会生活を阻害するリスクもある。ユビキタス社会を豊かなものにするためには、まず個人を尊重し、お互いのコミュニケーションを重視する企業風土が必要である。そのためには、技術偏重にならず、「いつでもどこでも」つながることの利便性をどうすれば有効活用できるか、いかに充実したワークライフ・バランスを実現するかを企業や政府機関、個人が一緒になって考えていく必要がある。そのためには、新たな技術はまず現実のユーザーに利用していただき、現場を見ながら周囲の制度なども含め改良していくことが重要である。
≪3≫今後の展望
NGNは、まだ始まったばかりである。また、ブロードバンド・ワイヤレス・サービスもこれからサービスが広がる段階である。ユビキタス・サービスが実のあるものか否かを判断するには、まだ、時期尚早である。ネットワーク技術や、クラウド・コンピューティングなどのICT技術の動向を見ながら、豊かな社会の実現にどう生かすのか、そのためのチャレンジは、これからが重要である。日本は、高速ブロードバンド・ネットワークでは世界に類を見ないほどの普及率である。少子高齢化や雇用問題などの社会問題を解決するためにも、セキュアなモビリティの実現によって、人や情報、経済の柔軟性を高めることが求められているのである。
参考文献
1)下畑光夫「コンテキスト:ユビキタス社会の“見えない”個人情報」OKIテクニカルレビュー2008年10月/第213号Vol.75 No.2
プロフィール
千村保文(ちむら やすぶみ)
現職:株式会社OKIネットワークス 経営企画部 セキュリティ・アンド・モビリティビジネスユニット エグゼクティブスペシャリスト
沖電気工業株式会社(OKI) キャリア事業本部 事業統括部 上席主幹
IP電話普及推進センタ センタ長
1981年沖電気工業入社。テレックス交換、パケット交換などデータ通信システムの開発に従事。1995年よりVoIPシステムの開発、標準化を担当。H.323やSIPなどの技術標準化を推進。2002年に沖電気にてIP電話普及推進センタを設立、センタ長に就任。2007年にセキュリティ・アンド・モビリティカンパニー バイスプレジデント/
コーポレート戦略室 上席主幹に就任。2009年4月より現職。