第2の課題:産業データ連携にインセンティブを付与できるか
小川氏が指摘する2点目の課題は、企業が警戒心から自社データの提供に慎重であること、ならびにデータ提供に対するインセンティブが欠如していることである。すなわち、産業データ連携に企業が参加する動機に関わる課題である。
〔1〕欧州は「データ主権」を担保する考えを基本
企業が自社データを他社に都合よく利用されてしまうことを警戒し、データの提供に消極的であるという点については、企業間のデータ連携の構造そのもので対応が図られている。欧州における一連の産業データ連携の取り組みでは、データ提供者がデータの持ち主であり、自身のデータの開示先や使用条件を自ら決定できる「データ主権」(Data Sovereignty)を担保する考えを基本としている。このアプローチでは、データを1カ所に集中して管理するのではなく、各企業が保有するデータを分散的に管理しつつ、必要な場面で相互に連携する「データスペース」(Data Space)の概念が採用されている(図2左)。これは、図2右に示す米国のテック企業による中央集権型プラットフォーム(Facebook、Amazon、Googleなど)に対抗する形で設計されたものであり、欧州の価値観に基づく非中央集権的なデータ流通の仕組みとして位置づけられる。
図2 欧州の産業データ連携と米国テック企業のプラットフォーム
ベンダーロックイン:Vendor Lock-in。企業がシステムを構築する際に、特定のベンダに依存しすぎてしまい、他のベンダのシステムや製品、サービスへの移行が困難になること。
出所 著者作成
〔2〕欧州で重要なカーボンフットプリントは限定的
小川氏が指摘する「インセンティブの欠如」という課題に関しては、ユースケースとは関係なく、データ連携の仕組みそのものにインセンティブを内包させることは難しい。このような課題に対しては、AASやデータ連携・活用に対応したシステムを整備し、それに基づいた価値あるユースケースと利益配分の仕組みを構築することが現実的な解決策と考える。欧州主導の産業データ連携の代表的なユースケースとして頻繁に取り上げられるのが、製品のカーボンフットプリント(PCF:Product Carbon Footprint、写真5)である。
PCFとは、原料採掘・加工・輸送・部品製造・製品組立といったサプライチェーンの上流から、製品使用後のリサイクル・リユース・廃棄に至るまで、製品のライフサイクル全体を通じて排出される温室効果ガス排出量を指す。製品の製造には複数のサプライヤーが関与するため、PCFの算定には各サプライヤーからのデータ収集、検証、共有が不可欠となる。このことから、PCFは産業データ連携の代表的なユースケースとして位置付けられている。
写真5 カーボンフットプリントデータの収集および算出時のデータの流れの例
出所 Industrie 4.0ステージ講演「Successful intercontinental multi-tier PCF data exchange via Catena-X - demo and discussion」より、著者撮影
しかし、PCFに関するデータ提供の動機の多くは、デジタル製品パスポート(DPP)やバッテリーパスポート等の規制への対応であり、経済的インセンティブは限定的である。規制対応を超えて産業データ連携が広く普及するには、企業が積極的にデータを提供するための、強いインセンティブが求められる。例えば、最終製品メーカーからの明確な利益配分やサプライヤーの優位性を高めるような価値の共有を備えた仕組みである。
〔3〕期待される自動車のリコールキャンペーン
データ提供者が、規制遵守以外のインセンティブを得られる可能性のあるユースケースとして、自動車のリコールキャンペーンが挙げられる。自動車メーカーにとってリコール対応は大きな費用負担であるが、産業データ連携とデータ解析を通じて出荷済み製品の不具合を早期に検出することで、従来のような大規模な全数リコールではなく、特定ロットや条件に絞った限定的な対応が可能となり、コスト削減効果が期待される。実際にBMW、メルセデス・ベンツ、フォルクスワーゲンの3社による試算では、産業データ連携を活用したリコール対応によって、自動車メーカーの利息・税引前利益(EBIT:Earnings Before Interest and Taxes)が0.4~9.9%改善されるとの結果がメッセにて発表された(写真6)。完成品メーカーが得た利益の一部をサプライヤーにデータ提供の対価として配分する余地は十分にある。つまり、データ提供元であるサプライヤーが経済的利益を得る仕組みを作ることは可能である。
写真6 BMW、メルセデス・ベンツ、フォルクスワーゲンの3社によるコスト削減効果の試算
出所 Industrie 4.0ステージ講演「From Efficiency to Innovation: The Monetary Value of Data Spaces - Three Real Use Cases」より、著者撮影
〔4〕リタールの事例に代表される製造プロセスにおけるデータ連携
著者は、データ提供者にとって経済的インセンティブがより直接的に作用するユースケースとして、先述のリタールの事例に代表される製造プロセスにおけるデータ連携を挙げたい。これは、部品サプライヤーと完成品メーカーの間で標準化された部品情報を、AAS(アセット管理シェル)を用いて連携し、従来は技術者が個別に実施していた部品適合可否の判断や設計作業を自動化することによって、双方に作業効率の付加価値を提供するものである(完成品メーカー側は品質向上も)。また、高精度なシミュレーション機能と組み合わせることで、製品のデジタルツインを用いた仮想試運転を行うといった高度な付加価値の創出も可能となる。自動化技術・機器メーカーの独FESTO(フェスト)によれば注5、現状では、完成品メーカーなど機器のユーザー企業側でのシステムが充分に普及していないため、上記で説明した付加価値が広く創出される段階ではないということだ。しかし、部品メーカーと完成品メーカー間のデータ連携による付加価値が広く認識されれば、普及は進むと考える。
サプライヤー間に競争がある前提では、標準的なAASを構築し、完成品メーカーとデータ連携可能な体制をもつサプライヤーが選好されることが予想される。サプライヤーは自らの優位性確保のため、産業データ連携を積極的に行うだろう。すなわち、産業データ連携を行うインセンティブが生まれる。データ連携の体制を備えたサプライヤーが増え、一部の完成品メーカーとの間でその価値が実証されれば、他の完成品メーカーも自らの優位性確保のため追従せざるを得ない。完成品メーカー側にも産業データ連携を行うインセンティブが生まれる。こうした相互補完的な関係性を通じて、標準化されたAASを用いた産業データ連携の仕組みが、サプライチェーン上の企業間における明確なインセンティブとして機能し得ると考える。
第3の課題:自律的な成長を促すメカニズムの欠如
小川氏が挙げる3点目の課題である「自律的な成長を促すメカニズムの欠如」については、第2の課題のインセンティブの課題が解決されれば、自律的な成長に向かうメカニズムが生まれると考える。データ提供に対する適切な対価と成果が明確に可視化されることで、企業のデータ連携への参加の動機が維持され、結果としてエコシステムの全体の発展に寄与することが期待される。
おわりに:インパクトが予想以上に大きい「産業データの連携」
電気自動車の対中関税などの対抗策に見られるように、製造強国として台頭した中国の対応に苦慮している欧州を見て、欧州主導の産業データの試みは果たして欧州の優位性確保にどれだけ寄与しているのだろうというのが、著者がメッセを訪問する前に感じていた疑問だった。
実際にメッセを見学し、産業データの連携が広く実現したときのインパクトは予想していたものより遥かに大きいと感じた。また、メッセ参加企業の産業データ連携に対する意気込みを直接感じることもできた。
◎著者プロフィール
大串 康彦(おおぐし やすひこ)
1992年荏原製作所入社後、技術者として環境プラントやエネルギー関連技術開発を担当。2006年から2010年までカナダの電力会社BC Hydro社に在籍し、スマートグリッド関連事業の企画を担当。2016年から2017年まで英国の再生可能エネルギー開発事業者で蓄電システムインテグレータのRES(Renewable Energy Systems)の日本法人にて系統用蓄電池事業に携わる。2017年から2023年まで米国LO3 Energy事業開発ディレクター(日本担当)。 海外企業、海外企業の日本法人、海外・日本の合弁企業での業務経験をもとに、現在は産業戦略アナリストとして、グローバルな産業政策分析と企業戦略の立案を行っている。著書に『商用化が進む電力・エネルギー分野のブロックチェーン技術2020-2021』(インプレス)、『蓄電池ビジネス戦略レポート』(日経BP社)がある。
注5:ブースでの説明。