成功しなかったアナログ電話網、ISDN、
B-ISDN(ATM)でのサービス統合
青山 1967年(昭和42年)には、データ通信サービスを実現するためにDIPS計画がスタートし、これが以後のデータ通信ビジネスの中心に位置づけられました。DIPSとは、当時の電電公社(現NTT)が1970年代から1980年代にかけて開発した、データ通信用メインフレーム・コンピュータの名称で、"Dendenkosha Information Processing System"(電電公社情報処理システム)の略です。
また、当時のNTT研究所は、電話、データ通信に加えて、もう一つのサービスの開発に大きなリソースをかけました。すなわち、テレビ電話サービスです。
—まさに電話、データ、映像のトリプル・プレイ・サービスの走りですね
青山 おっしゃるとおりです。私が入社した次の年に、大阪万博(1970年)があって、そのときのNTTのパビリオンは、テレビ電話一色で、パビリオンのいたるところにテレビ電話端末を置いて、いずれ各家庭にはテレビ電話機が設置されることをアピールしました。
これは1970年のことですが、当時は、その15年先の1985年には、テレビ電話の加入者数が100万加入になると喧伝されていました。しかし、現実は15年経った1985年にテレビ電話加入者ゼロ!という状況でした。
—それは、目標と現実のギャップが大きすぎましたね

青山 このようにアナログ網(電話網)によって、トリプル・プレイ・サービスをやるというのが、1970年頃の電電公社の戦略だったのです。それが第1回目の挑戦です。第2回目は、ISDNによる挑戦です。まず伝送路がデジタル化され、市外交換機がデジタル化され、加入者系交換機がデジタル化され、さらにピンポン伝送(※1)により電話機までデジタルにして、それでエンド・ツー・エンド(端末間)でデジタル通信を実現したのがISDNだったわけです。
このISDNで、電話サービスとデータ通信サービス、そしてテレビ電話サービス、すなわちトリプル・プレイ・サービスを狙ったわけです。ISDNはチャネルあたり64kbsの速度でしたので、放送番組の転送は到底無理であり、映像はFAXとテレビ電話でした。
しかし、ISDNはサービス・インしてもなかなか普及せずに、外国では、ISDNは「Idea Subscribers Don't Need」(ユーザーが希望しないアイデア)という風に、揶揄(やゆ)されたものでした。そして1990年の中ごろになってインターネットが登場し、爆発的に普及していったため、インターネットを運ぶアクセス回線として、ISDNのユーザー数が増加していきました。
しかし、それもADSLやFTTHのブロードバンド・インターネットの普及に伴い、ISDNもその役割を終わろうとしています。ISDNによるテレビ電話サービスのユーザーも極めて少数に留まっているのです。
—アナログ電話網からISDNとなると、その次は?
青山 それから数年後くらいに、いよいよブロードバンドISDN(B-ISDN、広帯域ISDN)の研究が始まり、B-ISDNを実現するATM(Asynchronous Transfer Mode、非同期転送モード)と言う技術によって、電話サービス、データ通信サービスと、テレビ電話サービスを実現する広帯域でのサービス統合化をねらいました。加えて当時は、ビデオ・オン・デマンド(VoD)・サービスが注目され、ビデオ・レンタル店が消滅するといわれていました。
世界のテレコム・キャリアとベンダは、ATMの開発にまい進しました。私自身もATMの研究に従事し、論文も書きました。しかし、ATMは専用線やインターネットのレイヤ2(※2)として用いられましたが、コストが高いこともあり、ATMは退場しつつあります。結局、アナログ電話網、ISDNに続いて、B-ISDNも当初の狙いどおりにはうまくいきませんでした。トリプル・プレイ・サービスは、このように3回目の挑戦も失敗したことになるのです。
用語解説
※1 ピンポン伝送
ISDNで採用されている伝送方式。1対の銅(メタル)線上で、上り信号と下り信号を、ピンポン(卓球)のように交互に割り当てて双方向伝送を実現する方式
※2 レイヤ2
7レイヤで構成されるOSIプロトコルのデータリンク層(レイヤ2)のこと。コンピュータ間で正確にデータを送受信するためのプロトコル(回線)