≪1≫ITUにおける標準化のテンポが遅い本当の理由
■ITUでは、そんなに経済的に逼迫した中で標準化の活動が運営されているのですか?
井上 そうなのです。それは世界中の国々が参加して標準化を行うというのは、民主主義的であり、非常によいことなのです。しかし、民主主義にも必要悪のような部分もあるわけです。例えば、何度も会合を開催する必要性が生じても、経済的にも、地理的にも頻繁に開催できませんから、これによって、標準化が遅れてしまう場合がよくあるのです。このため、よく、ITUの標準化は遅いといわれてしまうのです。
これとは逆に、例えば、ETSI内でNGNの標準化を担当している前述したTISPANプロジェクトなどは、自分たちがある標準化をいつまでに完了させようと決め、もし決まらなかったら、地理的には欧州の範囲内であり、経済的に旅費などを心配しなくても、頻繁に納得いくまで開催できるのです。まさに標準化は体力勝負的なところがあるわけです。
■欧州の人たちは開発途上国の人々に比べたら、はるかに裕福ですし、地理的にも近い国同士ですものね。
井上 つまりETSIの場合は、極論すれば、お金のない人はこなくていいと(笑)いう、資本主義の原理で運営できるのです。そうすると、3年で技術が変わってしまうような技術革新の激しい時代に、6カ月も期間を空けて開催される遅いテンポの標準化の会合は二の次になりがちです。そこで、ETSIは、TISPANのようなプロジェクトで頻繁に会合を行って標準化の内容をつめてしまうのです。そして、ETSI内で固まった標準化の内容をITUにスタンプ(承認)を押してもらえばいいということになってしまうのです。
■3GPPや3GPP2などもそんな感じなのでしょうか。
井上 3GPP/3GPP2もそうです。
■3GPP/3GPP2も、主だった先進諸国の標準化機関がだいたい入っていますよね。
井上 ええ。あれは世界の各地域の、日本でいえば私たちのような、TTCとかARIBが、欧州はETSIが、中国はCCSA、韓国はTTA、米国はATISという標準化機関がパートナーになって、そのパートナーシップのもとにいろいろな企業が入って、決めていきましょうという仕組みになっています(図4、表1)。それは先ほどのTISPANと同じように、必要に応じて会合を開催できるのです。つまり、いつまでにこれを標準化しようと決めて、議論がヒートした場合は、それこそ徹夜でも、ぶっ続けでも会合を重ねて決めていくのです。必要な経費はみんなで、出し合って運営しているのです。
■そうすると、例えばITUが、先ほどお話いただいたゆっくりしたテンポで標準化を進めていると、ITUの標準化活動はスタンプを押す機関のようになってしまい、空洞化してしませんか。
井上 そうなのです。現実はだんだん空洞化しているのです。ですから、今回のNGNの標準化にしても、例えばNGNのプロトコルの中心となっているIMSというのは、TISPANで骨格を決めて、TISPANで標準化の内容をだいたい決めしまうのです。このIMSをモバイルの人にも使ってもらうために3GPPに移して、標準の最終のブラッシュアップを3GPPで行い、それをITUでスタンプを出して欲しい(承認して欲しい)というのが今の流れなのですね。
少なくともNGNリリース1(表2)はそういう経緯で標準化されたのです。その経過の中では、ITUとTISPANの間でかなりいろいろな議論がありました。結果的には、NGNリリース1は標準化されましたので、NGNリリース2もそういうプロセスで標準化しようというのが、現在、欧州のTISPANの作戦なわけです。これに対してITUは、スタンプを押すだけではなく、何とか標準化を一緒にやろうではないかというので、今、ITU側もいろいろな提案をしているところです。
■米国勢はどのような状況なのでしょうか。
井上 米国勢は、もともと彼らの主たる目標は、ネットワークをつくることではなく、ネットワークをどう利用するか、どういうサービスをつくるか、に移っていますから、ネットワークをつくるのは、正直言えば、お任せします(笑)、感覚的にはそういう感じですね。ですから、ネットワークのつくり方にはあまり言ってきませんが、例えばNGNリリース2の主役がIPTVとなると、これはサービスそのものですから、米国勢はIPTVには何か言いたいわけです。しかし現在のところ、米国勢が、IPTVについて、どういう方針をとるかということについては、現状では、定かには決まっていないようです。
≪2≫ITUにおける標準化活動の改革の方向性
■そうすると、現在、「ITUにおける標準化活動とは何か」とか、「標準化の組織自体のあり方自体」が問われているようにも思いますが。
井上 そうですね。いろいろなやり方があるのですけれども、私は去年(2006年)、ITU-Tの改革目指してITUの電気通信標準化局長(ITUにおける標準化のトップ・ポジション)に立候補〔編注。最終結果:井上 友二氏 (日本)79票、当選:マルコム・ジョンソン氏(英国)83票。4票差で惜敗〕しましたが、その時点で、現在のITUにおいて、新しい技術を標準化するのは、先ほどのようなルールからいって、無理が生じてきているのではないかと思っていたのです。
したがって、これからのITUはそうではなくて、世界各国・各地域において例えばサービス条件や、地理的な条件も違う、収入も違う、お客の層も違う、要求しているサービスの度合いも違うという現状を認識し、ここに焦点を当てて活動を展開していく必要があるのではないかと思っているのです。ですから、もっとユーザー側に立って、ユーザーにとって、現在の情報通信は何が役に立っているのかいう観点からITUが検討すれば、各国のメーカーにとっても、世界のユーザー・ニーズがわかるので助かるわけですね。
今は、例えば世界が注目しているIPTVというのは、つくるとこうなる、こんなサービスができる、というようなことを通信事業者あるいは通信機器メーカー、家電メーカーサイドは想定しながら、標準をつくっているわけです。
≪3≫ITUをユーザー側へのサービスを重視した機関へシフトを
井上 それに対して、ITUは各国の政府が絡んでいるデ・ジュールな標準機関ですから、むしろ各国間で技術競争する場としてではなくて、そういう技術があったら、私たちはどう使う、社会にはどう役立つのかというようなことを、もう少しほかの国際機関と、もっと連携をとったほうがよいのではないか。NGNによって、医療や健康関係に応用するようなサービスを提供するのでしたら、例えばWHO(World Health Organization、世界保健機関)ともっと組んで新しいサービスを考える。そのようなことがこれからの新しい、本来のITUが目指すべき仕事ではないか。私がもし当選したあかつきには、ITUの主な役割を各国の国民のサービス向上のためであるとか、社会のために情報通信をどう使うのかというようにシフトしていきたいとアピールしてきました。
新しい技術の標準化は、先ほど申し上げたETSIや3GPP、あるいはIETFなどに任せてしまってはどうか。ITUはそれらの標準組織と連携し、標準化して欲しい技術について、一定程度経済的なサポートをしながら、複数の提案をもらう。そのようにすれば、半年に1回の会合でも十分活動はできるわけです。
■たしかにそうできたら素晴らしいですね。
井上 その技術の標準化を、191カ国参加のもとに無理に一生懸命競争しようとするから、だんだんITU離れをしていってしまうのです。技術が3年に1回変わってしまうほど急テンポに革新が進んでいるのに、ITUの都合で1年間にせいぜい2回か3回しか会議できないのでは、標準を決めようがないのです。
■現状はそのような危機感をもって新しい改善なり改革が進んでいるのでしょうか。
井上 そこは、残念ながら、私は電気通信標準化局長(編注:ITUにおける標準化のトップのポジション)の選挙に落ちてしまったので、今、どのように変えようとしているのかわかりません。それで、この前、当選した新局長のジョンソン氏が来日(2007年7月)したときに、私がITUの各標準化の研究委員会(SG:Study Group)を統合して、技術的な標準化ではなくアプリケーション・グループやリクワイヤメント(要求条件)・グループをつくって、それを整理する組織をつくったほうがいいのではないのか、と申し上げたのはそれの一環なのです。
(そのときの内容は次のURLを参照:http://wbb.forum.impressrd.jp/report/20070719/442)。
その仕事は今までは、実はITU-D(電気通信開発部門)というITUの開発局のメーンの仕事だったのです。
≪4≫NGNが必要になった3つの理由
■そのような状況の中で、現実にNGNという標準ができて、あるいはIPTVという標準ができようとしています。現状のNGNの標準化状況と国際的な各キャリアの取り組みの状況はいかがでしょうか。
井上 NGNの標準は、ITUにとって少なくともこの5年間、ほとんど目玉となる標準はない状況でしたので、このNGNの標準化をきっかけにして、ITU-Tが復権しつつあるという感じを抱いています。
■それはどういうことでしょうか。
〔1〕第1の理由:デジタル交換機が手に入らなくなってしまったこと
井上 私はそのNGNの標準化が必要になった背景には、3つの理由があったと思います。第1の理由は、よく知られているように現実的にデジタル交換機が手に入らなくなってしまったことです。したがって、デジタル交換機に代わるルータによって、電話をIP化(IP電話)しなくてはならなくなった。これはキャリアにとって切実な問題なのです。この電話をIP化するというときに、SIP(Session Initiation Protocol、セッション開始プロトコル)という技術が重要となります。
このSIPは、インターネット技術の標準化委員会であるIETFで標準化されてきましたが、IETFが決めているSIPだけでは通信事業者レベルの安全性・信頼性を実現するのが難しいわけです。そこで、SIPの機能を拡張しながら、そのSIPをベースにしたIMS(IP Multimedia Subsystem)というシステムに進化させて、キャリアに使えるように機能が強化されているのです。
ですから、極端に言うと、NGNのリリース1というのはIP電話が実現できればよい、というところがあるのです。その理由は、それだけ、デジタル交換機がなくなってしまっていること、これから5年から10年もの間、今のままほうっておくと、電話サービスが完全にできなくなってしまうほど深刻なのです。現在、NTTの固定電話サービスは減っているとはいえ、まだ5,000万もの固定電話のユーザーが利用しているわけですね。交換機の寿命は、10年ぐらいですが、今後10年間で5,000万のユーザーがゼロになってしまうということは考えにくいのです。
当然、固定電話サービスというのは社会的にもビジネス的にも主要なサービスであり、今後も残り続けるわけです。ですから、やっぱりIP化して、サービスを提供していかなければならないのです。これは世界中、どの国も共通の問題ですし、とくに開発途上国が深刻なのです。
■途上国が深刻というと?
井上 というのは、デジタル交換機は無くなるのでこれからは買えないでしょう。ところが、途上国の電話の普及率は、まだ5%とか10%程度のところも多いのです。世の中は携帯だけというわけにはいきませんし、やっぱり固定電話も要るのです。そうすると、固定電話をこれから普及させていくには、IP電話に頼らざるを得ないのです。このように、オールIPを基本とするNGNには非常に切実な期待があり、明確な「電話のIP化」というデマンドが1つあるのです。
〔2〕第2の理由:先進諸国の「IP化で何でもサービスできるという期待」
それから、2番目は、先進諸国の問題です。昔、ISDNが登場してきたときに「デジタル化されたらなんでもできる」と言われたと同じように、NGNではすべてIP化されるので、「IP化で何でもサービスできる」という期待があり、そういう思いが強いわけです。
すなわち、インターネットで使用されているIPをベースにして、安心・安全や信頼性を付加したNGNで、IP電話/IPテレビ電話をはじめ品質のよい映像コンテンツの配信(IPTV)に至るまで、ネットワークをもっとたくさん使ってもらえるのではないか。さらに、キャリア(通信事業者)は、それらに加えていろいろな付加価値サービスを提供することによって、もうちょっとお金(通信料金)がもらえるのではないか、というような思惑があるのです。しかし、この2番目の理由は、NGNがまだ本格的な商用サービスに至っていない、すなわちまだ検証されていないので不明なところがあります。
■そうですね。
〔3〕第3の理由:「インターネットよりも安全という期待」
井上 ところが、3番目というのは、開発途上国の問題です。電話のIP化というのは共通なのですが、開発途上国にとってみると、まだインターネットというのはまだほとんど敷設されていない、つまり、ほとんど普及していないのですね。ですから、これからネットワークを普及させるとしたら、インターネットじゃなくて、先進国がよいと言っているNGNのほうがよいのではないのという期待ですね。インターネットはとても使いやすい反面、音声や映像が途切れてしまったり、ウイルスでやられてしまう危険性などの問題があり、これらをNGNだったら避けて解決くれるのではないか。ということもあり、インターネットではなく、NGNに期待しているということなのですね。
このように、NGNについては、1番目のデジタル交換機がなくなるというのは切実な問題であり、2番目、3番目の理由は、まだ検証されているわけではないのですが期待は大きいため、NGNは結構盛り上がっているのです。
以上のことから、私は、NGNが先進国だけの問題でしたら、実はITUで標準化をする必要はないと思っているのです。もっとデ・ファクト標準として業界主導でガンガンやったほうがよかったのです。例えば、NGN対応のSIPの改良などは、標準化を行ったIETFだけで行うほうが効率的なのです。しかし、開発途上国では、正直言って、政府がお墨つきをつけたものでないと、導入しにくい国がまだまだたくさんあるのです。したがって、やっぱり国が関与しているITUなどのデ・ジュール標準が重要なのです。そういう意味もあって、ITUがNGNをデ・ジュール標準として標準化したことは国際的に見ても成功していると思っています。
(つづく)
プロフィール
井上 友二(いのうえ ゆうじ)
現職:(社)情報通信技術委員会(TTC)理事長・事務局長
1971年 九州大学工学部電子工学科卒
1973年 九州大学大学院工学研究科修士課程電子工学専攻了
1973年 日本電信電話公社に入社し、横須賀電気通信研究所を最初に通信網構成技術や伝送技術等の研究に従事
1982年~1992年まで CCITT SG18(現ITU-T SG13)における国際標準化作業に参加し貢献。その後、NTTマルチメディアネットワーク研究所長、(株)NTTデータ取締役・技術開発本部本部長、NTT取締役・第三部門長等を歴任
2006年 NTT取締役・CTO
2007年4月よりTTC専務理事・事務局長に就任し、6月より現職