[インターネット・サイエンスの歴史人物館]

連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(8)ローレンス・ロバーツ

2007/10/03
(水)

コンピュータ・情報通信技術は今日、社会生活においてなくてはならないものになっています。本連載「インターネット・サイエンスの歴史人物館」では、 20世紀初頭に萌芽を見せ、インターネットの誕生など大きな発展を遂げたコンピュータ・情報通信技術の歴史において、多大な貢献を果たしたパイオニア技術者たちの伝記を掲載。やがて「標準技術」へと結実することになる、彼らの手探りの努力に触れることで、現代社会が広く享受している恩恵の源流を探ります。第8回目は、Arpanetの設計と要素技術の仕様策定を担い、パケット通信網が機能することを世界で最初に実証したローレンス・ロバーツを取り上げます。

ローレンス・ロバーツ

Arpanetを現実に導いたアーキテクト

ローレンス・ロバーツは、Arpanetの設計と要素技術の仕様策定を担い、パケット通信網が機能することを世界で最初に実証した。ロバーツは故に、インターネットの父と呼ばれている。彼は、マサチューセッツ工科大学(MIT)の博士論文で3次元グラフィクスの研究に先鞭をつけ、リンカーン研究所でタイムシェアリングOSを開発し、29歳で国防省高等研究計画局(ARPA)情報処理技術部のチーフ・サイエンティストになった。パケット通信網の設計はロバーツが着任してから始まり、7年間の在任中にルータの元祖となるIMPやTIPが開発されて最初のノードが形成される。そこでTCP/IPの前身となるNCPで相互接続が可能になり、電子メールがWANで利用できるようになった。

3次元グラフィクスの先駆者

ローレンス・ロバーツは1937年12月21日に、コネティカット州ノーウォークで、エリオットおよびエリザベス・ロバーツの息子として生を受けた。ロバーツは、1955年にMITの電気工学部に入り、翌年に完成したトランジスタ型コンピュータTX-0でプログラミングを学んだ。TX-0は、当時としては対話型でプログラミングできる唯一のコンピュータで、テレタイプやテープから入力したプログラムとデータの処理結果を、CRTディスプレイに表示できた。

ケン・オルセンとウェズリー・クラークが、空軍のシステム開発を担当していたMITリンカーン研究所で設計したTX-0は、対話型コンピューティングの有用性を示すために設計され、完成後、MIT電子研究所(RLE)のジャック・デニスに管理が委ねられた。クラークとデニスは、防空システムのデータ処理を担ったWhirlwindのプログラマだった。デニスはTX-0でアセンブリ言語が使える環境を整え、学生はプログラミングを体験することができた。1957年9月にジョン・マッカーシーが、MITでプログラミング言語Lispの研究を始め、その1年後にマービン・ミンスキーと、RLEで人工知能研究プロジェクトを立ち上げた。ロバーツはニューラル・ネットワークのアルゴリズムを学び、TX-0で手書き文字を認識するプログラムを考案して、最初の論文を書いた。

電気工学の学位を得たロバーツは、MITの大学院生として、リンカーン研究所で1959年に完成した強力なコンピュータTX-2で研究を続ける道を選んだ。かれはウィリアム・ペイピアンがディレクタをつとめるアドバンスト・コンピューティング・グループに入り、ウェズリー・クラークに手腕を認められて、TX-2のOSの開発を担当した。

ロバーツは、実験心理学者ジェームズ・ジェローム・ギブソンから、大きな影響を受けた。プリンストン大学でプラグマティズム哲学とゲシュタルト心理学を研究したギブソンは、第2次大戦中には空軍基地でパイロットの適性検査を担当し、視空間の研究に取り組んだ。彼は、光が反射されて生じる配列に着目して、「観察点において捉えられる包囲光配列の構造が空間知覚の情報に他ならない」という学説にたどり着いた。生物の眼は、環境における包囲光配列の流動パターンを捉え、光配列の変形から運動視差としての奥行情報を得る。また、光配列が変形する中で、眼は不変項を識別して物体を認知する。ギブソンは、1950年に著した『視的世界の知覚』や、58年の論文「動物における視覚的制御下の移動および視覚的定位」で、環境と関係づけられる認識主体の観点から3次元空間を理論づけた。

ギブソンは、後にバーチャル・リアリティと呼ばれる研究領域の出発点となる視点を提示していた。ロバーツは、MITの電気工学部長ピーター・エライアスを指導教官に、TX-2で3次元物体を認識するソフトウェアの研究に取り組んだ。ロバーツは1963年の博士論文「機械の3次元物体認識」で、3次元物体の隠線処理のアルゴリズムを開発して、3次元グラフィクスの研究に先鞭をつけた。

グラフィクスとネットワークの狭間で

ロバーツは、リンカーン研究所の同僚アイヴァン・サザランドとレオナード・クラインロックとともに博士号を取得した。サザランドはTX-2で、2次元グラフィクスを操る描画ソフト「スケッチパッド」を開発して、1964年7月にARPAの情報処理技術部長に抜擢された。クラインロックは、大規模ネットワークにおける情報の流れを研究した。彼は61年7月にRLEの季刊誌で、メッセージを分割し、宛名と返信先の情報を付加して送信し、受信側で復元する方法を示した。さらに博士号を取得後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で教職を得て、64年に『通信網』という著書でキューイング理論を発表した。パケットを1度メモリに蓄えてから送り出す方法は、電報やテレックスで使われていた。しかしその理論では、キーボードで電文を入力して紙テープに符号を記録し、次々に作成される紙テープをリーダーにかけて、回線が空き次第順次送信し、受信を確認するメッセージを受け取る、というものであった。

ロバーツは、TX-2のタイムシェアリングOSを開発して、APEXという簡易プログラミング言語を設計し、複数のユーザが画像をやりとりする環境を構築した。彼は1964年11月に、バージニア州ホットスプリングで開催された空軍の第2回情報システム科学会議で、「グラフィカル・コミュニケーションと制御言語」を発表した。かれはこの会議で、ARPAで広域ネットワークを構想したJ. C. R. リックライダーと会い、コンピュータ・ネットワークの意義を聞いた。

間もなくしてトム・マリルが、サザランドに、2台の異なるコンピュータで遠隔自動通信を行う実験を提案した。マリルはリンカーン研究所に勤めた後、リックライダーに誘われてBBNに入り、コンピュータ事業の立ち上げに関与した。マリルは当時、タイムシェアリング・サービスを事業化するため、小さな会社を創業してプロジェクトを探していた。サザランドはロバーツに、TX-2およびロサンゼルス近郊のサンタモニカのSDCのQ-32で、初のワイドエリア・ネットワーク(WAN)実験を行うことを打診し、マリルのプロジェクトを監督するように要請した。

当時ロバーツは、サザランドから助成を受け、タイムシェアリングで複数のユーザが画像を扱う研究に従事していた。この研究では、TX-2のタイムシェアリング性能をグラフィック端末間で画像をやりとりして調べ、転送をスムーズにするためにデジタル画像を圧縮するアルゴリズムを検討した。ロバーツは、65年2月にサザランドの要請に応じて、接続実験契約を交わした。彼は、5月にニューヨークで開催されたIFIPSの会議で、「タイムシェアリング環境における画像コミュニケーション」を発表した。次いで、TX-2のタイムシェアリングOSを修正して、7月にマリルと契約してWANの実験プロジェクトに着手した。

最初のWANの接続実験

ロバーツとマリルは、2台のコンピュータを、ウェスタン・ユニオンの2kbpsの4線式全二重回線で接続することにした。彼らは、デジタル・データをキャリア信号に乗せるために、1,200bpsの自動ダイアル装置(モデム)を製作した。ロバーツは、宛名をつけた複数のメッセージ・ブロックにテキストを分割し、メモリに格納してから転送する仕様を決めた。マリルは、メッセージを送出して正しく受信されたかどうかを確認するプログラムを記述した。ネットワーク接続のための手順は、「メッセージ・プロトコル」と名づけられた。

1965年10月に行った実験では、タイムシェアリングOSとプロトコルの連携には成功したが、電話回線は極めて不安定で、実用に耐えるものではなかった。ロバーツとマリルは、66年10月の米連邦情報処理学会(AFIPS)の会議で「時分割コンピュータ間の協力的ネットワークに向けて」を発表し、「標準プロトコル」こそが、互換性がないコンピュータの壁を乗り越える手段になると語った。ロバーツは、65年の秋にMITで開催されたタイムシェアリング・システムの会議で、リックライダーとともに英国物理学研究所(NPL)のドナルド・デービスに出会い、WANの実験について話した。

デービスは1965年12月15日にNPLの内部文書で、短いメッセージをメモリに格納してから送出する方式で、英国のデジタル通信網の青写真を描いた。彼はこの文書で、100kbpsから1,500kbps(T1)の回線を使い、128バイトのメッセージを1秒間に1万扱えるスイッチによりオンライン・サービスを提供するネットワークを構成できると考えた。そして、66年6月のNPLの内部文書で、「パケット」という言葉を初めて使った。

サザランドは、リックライダーのビジョンを現実にできる人材はロバーツしかいないと考え、1966年初めに情報処理部のディレクタの地位を彼に譲ろうとした。しかし、TX-2の監督者としてグラフィクスを研究できる立場にあったロバーツは、動こうとはしなかった。サザランドは、66年6月にARPAを去って、ハーバード大学の助教授になり3次元グラフィクスの共同研究をロバーツに提案して同意を得た。

サザランドの後任ディレクタになったロバート・テイラーは、リンカーン研究所にロバーツを訪ねて一度説得を試みた後、ARPA局長のチャールズ・ハーズフェルドに助けを求めた。テイラーは、ARPAがリンカーン研究所の運用資金の51%を負担していることを知っていた。ハーズフェルドは、リンカーン研究所長からロバーツのARPA転属を指示させた。ロバーツは1966年12月に、29歳でARPA情報処理部のチーフ・サイエンティストになった。

Arpanetを現実に導いたIMPとNCP

ロバーツは1967年4月に、情報処理部が助成している研究コミュニティの主要メンバーを、ミシガン州アナーバーに集めてArpanetの検討会を開いた。テイラーとロバーツは、16の大学や研究所の35台のコンピュータを相互接続することについて、同意を得る必要があった。情報処理部が助成したコンピュータは様々な研究に利用され、ネットワークのために資源を割くことには消極的な研究者が大半を占めていた。ロバーツは、参加者には利用できるコンピュータ資源を拡大することを約束して、批判をかわした。そして彼は、マルチノード・ネットワークをどう実現するのかについて知見を述べ意見を求めた。

テイラーとロバーツは会議を終えて、ウェズリー・クラークとユタ大学のデビッド・エバンスとともに、タクシーで空港に向かった。クラークはそこで、パケット交換に必要な機能は外付けのミニコンで実現すべきだと語った。ロバーツは車中で、ルーティングを担当する小型コンピュータの採用を決めた。ロバーツはその後6ヶ月間、クラインロックとエバンスの助言を得ながら、1967年の夏にArpanetの全体設計と仕様をまとめ、67年10月に、テネシー州ギャトリンバーグで開催された米コンピュータ学会(ACM)のOSの会議でArpanet計画を発表した。ロバーツはネットワークにより、負荷分散、電子メール、データ共有、遠隔ログインが可能になると述べた。

この会議ではNPLのロバート・スカントルベリーが、デービスのパケット交換網について発表した。ロバーツは、分割したメッセージをセグメント・ブロックと表現していたが、パケットという言葉は初めて耳にした。NPLの発表では、クラークが発想したインタフェース・メッセージ・プロセッサ(IMP)と同じ役割を果たす「インタフェース・コンピュータ」についても説明された。ロバーツはこの会議で、ランド・コーポレーションのポール・バランが1964年8月に執筆した「分散通信について」の存在を知らされた。ロバーツは、NPLの研究から想定していた2,400bpsのより高速の50kbpsの帯域幅、さらにバランのルーティング・アルゴリズムを採用することにした。

ロバーツは1968年に、パケット交換の一般概念、パケットのサイズ、インタフェース・プロトコルの仕様を記述して、IMPの開発・製造を請け負う提案書を募るため、複数の企業に要望書を配布した。IMPはルーティングを担う専用コンピュータで、低価格のミニコンを使い、ソフトウェアで機能を実現する必要があった。BBNは、Honeywell516ミニコンでソフトウェアの開発をすることを提案し、IMPの開発を69年1月に受注した。BBNは69年8月30日に、IMPの1号機をUCLAに空輸し、数日後にUCLAを訪れてソフトウェアをインストールし、10月29日にSRIのSDS-940と50kbpsの回線で、128バイトのパケット通信に成功した。IMPは、69年末までにUCサンタバーバラとユタ大学にも届けられ、4ノードのArpanetが形成された。テイラーは69年末に情報処理部を去り、ロバーツがディレクタに昇格した。

一方1968年7月に、研究コミュニティの大学院生で構成されたネットワーク・ワーキング・グループ(NWG)の会議がイリノイ大学で開催され、ネットワーク・コントロール・プロトコル(NCP)の仕様の策定という大仕事が課せられた。この作業は当初試行錯誤を続けていたが、ロバーツは69年12月8日にユタ大学で開催された大学院生の会議に赴き、プロトコルの要件を解説した。UCLAのスティーブン・クロッカー、ヴィントン・サーブ、ユタ大学のスティーブン・カーが中心になって、70年12月にNCPの仕様がまとまった。そして71年10月に、異なるコンピュータに実装されたNCPによる相互運用性を検証する作業がMITで実施され、Arpanetは全米15サイトで同じ手順により、相互接続できるようになった。

電子メールのコミュニティを形成

パケット交換によるデータ通信網の構築は成功し、電話の15分の1のコストでメッセージを送ることができた。ロバーツは、Arpanetの計画を発表して以来、通信の専門家からは、パケット交換はバッファがすぐに満杯になって機能しないという批判を受け、また計算機センターからは、コンピュータの処理能力を盗むという嫌疑の眼差しを向けられてきた。ロバーツは、パケット通信の真価を公に告知するために、1972年10月にワシントンD. C.で、コンピュータと通信の国際会議(ICCC)を開催することを決め、ロバート・カーンに準備を進めさせた。

Arpanetの各ノードが相互に接続できるようになると、BBNでタイムシェアリングOSのTenexを開発していたレイ・トムリンソンは、2台のPDP-10で電子メールが使えるかどうかを試した。トムリンソンはTenexのユーザ用のメールとして、sndmsgとreadmailというプログラムを記述していたが、sndmsgにcpynetというプログラムを追加し、「ユーザ名@ホスト名」というアドレス表記を考案して、Arpanetのユーザにプログラムとその使い方を配布した。

ロバーツは、電子メールが使えるようになった1972年4月に、ARPA局長スティーブ・ルーカジクに試してみるよう薦めた。ルーカジクはしばらくreadmailを試してみて、ロバーツに使いにくさを指摘した。readmeilには、メールを順序よく並べる機能も、保存したり返信する機能もなかった。ロバーツは、TenexのテキストエディタTECO(Text Editor and Corrector)のマクロを使って、週末を利用して3日間でRDというプログラムをつくった。RDにより、受信箱のメールを件名、日付でソートでき、保存、削除が行えるようにした。ロバーツがRDを公開すると、バリー・ウェスラーが改良版NRDをつくり、マーティ・ヨンクがsndmsgとNRDをコーディングし直して、送受信を統合したBANNARDにした。さらに、ジョン・ヴィタルがBANNARDを改良して、返信と転送が行える今日的なメーラーが誕生した。ルーカジクは、RDの後の電子メールの発展に満足して、ARPA内部で全面採用し、国防省そして軍にArpanetのテレタイプ端末のユーザを広げた。

カーンが準備を進めたICCCでは、1972年10月にワシントン・ヒルトン・ホテルの宴会場に約40台のテレタイプ端末が設置され、地下にターミナル・インタフェース・プロセッサ(TIP)を設置して、Arpanetに接続できるようにした。TIPはMIPと似た装置だが、大型コンピュータがなくても、テレタイプ端末でArpanetにアクセスできるように、71年8月にBBNで開発された。ICCCは3日間開催され、電子メールという通信手段をもつコミュニティの責任者と大学院生が、自分たちの役割分担を明確にして協力し、政府、軍、コンピュータ、通信の業界関係者に、テレタイプ端末から自分の大学のコンピュータにアクセスさせて、何を研究してきたのかを説明した。ロバーツはパケット通信が現実になったことを、広く認知させて自らの責任を全うした。

ICCCの3ヶ月後の1973年1月にはArpanetは、20台のIMPと15台のTIPで35ノードを形成し、38台のホストコンピュータが接続されていた。また同じ年に、ハワイに設置されたTIPが、衛星経由でArpanetに接続され、欧州でも2台のTIPでArpanetが利用できるようになった。ロバーツは、BBNが設立するネットワーク事業の子会社のTelenetの社長になるよう要請され、73年5月にARPAを去ることを公表した。かれは情報処理部の初代ディレクタ、J. C. R.リックライダーに再度ディレクタに就任することを説得し、9月にARPAを辞した。73年9月には、Arpanetのノードは40になり、45台のホストコンピュータが接続され、1日あたり290万パケットが処理されるようになった。

ネットワーク革命の一翼を担い続ける挑戦者

1973年10月にTelenetの社長になったロバーツは、FCCに通信キャリアとして、パケット交換ネットワークを構築するために申請し、6ヶ月後に認可を受けて74年8月に、7ノードで世界初の商用パケット通信サービスを開始した。Telenetのサービスは、多数のTIPをユーザサイトではなく、中央のセンターで集中管理する「仮想回線(Virtual Circuit)」として提供され、ユーザはホストコンピュータやテレタイプ端末を通信回線経由で接続して、Arpanetと同様のネットワークを利用する方式になっていた。Telenetは78年4月に、187ノードで180のコンピュータに回線接続サービスを提供し、156の都市で端末アクセス・サービスを提供するまで拡大し、米国外の14ヶ国にも利用者を広げた。

Telenetは79年にGTEに売却されたが、ロバーツは1982年まで社長兼CEOをつとめた。GTEは、その後Sprintのデータ部門になった。彼は82年にDHLの社長兼CEOにむかえられ、同社の翌日宅配サービスを可能にするプロジェクトを立ち上げ、翌83年に子会社のNetExpress Inc.を設立した。この会社では、93年まで社長兼CEOをつとめ、パケット通信によるファクシミリやATM通信機器の事業を手がけた。ロバーツは93年から98年までATM Systemsの社長をつとめ、ATMとEthernetスイッチの開発およびEthernet上にATM通信を乗せるプロトコルの開発を主導した。彼はその後、ATM並のサービス品質をもつインターネット・ルータを事業化するPacket.comを創業し、さらにマルチメディア配信サービス・ソリューションを提供するCaspian NetworksおよびANAGRANを創業した。

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参考文献

Lawrence G. Loberts”The ARPANET and Computer Networks”「A History of Personal Workstations」Edited by Adele Goldberg, ACM PRESS, Addison-Wesley Publishing Company 1988 http://www.packet.cc/files/multi-net-inter-comm.html

M. Mitchell Waldrop「THE DREAM MACHINE: J. C. R. Licklider and the Revolution That Made Computing Personal」VIKING published by the Penguin Group 2001Katie Hafner and Matthew Lyon「Where Wizards Stay Up Late」Simon & Schuster 1996:邦訳「インターネットの起源」アスキー、2000

Janet Abbate「INVENTING THE INTERNET」The MIT Press 1999

J. J. Gibson「The Ecological Approach to Visual Perception」Houghton Mifflin Company,1979:邦訳「生態学的視覚論」サイエンス社、1985

http://www.livinginternet.com/i/ii_ncp.htm

http://www.livinginternet.com/e/ei.htm

http://www.transmitmedia.com/svr/vault/roberts/roberts_transcript.html

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