≪1≫標準化における3つの段階
■最近、NGNとかIPTVなどの次世代の新しい技術が話題になり、国際的にも改めて「標準化ということ」が注目されています。そこで、これらの標準化を推進されておられる立場から、「標準化の重要性」をどうとらえておられるか、お話しいただけますか。
井上 NGNやIPTVなど久しぶりに大きな次世代ネットワーク技術の登場によって、世界の通信事業者や通信機器メーカーの標準化活動への取り組みが活発化しています。私も長年、NTT時代に国際的な標準化活動に参加し、いろいろな標準化に取り組んできましたが、その経験からも、「技術の標準化」というのは、いろいろな側面をもっています。
〔1〕標準化の第1段階
井上 例えば、非常に若い国というか、技術の伸び盛りの国では、標準化というのは国威発揚として重要な意味をもっています。極論しますと、当面のビジネスのことよりも「おれたちの技術が国際標準化されて世界で使われる」ということです。これは標準化の第1段階に当たるところで、昔、私たちがNTTで経験してきたことに近い話です(図1)。
当時は、私たちが提案した方式が国際標準になったといっても、昔からNTTが自分たちで開発してきた技術が、ほぼそのまま標準化されただけのことなのです。しかも外国の技術は使用していませんし、外国のメーカーから製品を買っているわけでもないので、特に標準などがなくてもよかったわけです。しかし、非常に単純に言いますと、「おれたちがつくったものが世界で使われるのだ」ということは、とても意欲が掻き立てられるものがあったのです。
■なるほど
井上 しかも、それは学会に論文を発表することとは大きく異なるものでした。学会活動で発表する論文というのは、自分が考えた(あるいは研究した)、他の人よりもすぐれた、世界で初めてのアイデアなり発明の成果を、1つの論文に書き上げるわけです。これに対し、標準化というのは、標準化された技術なり製品をみんなが国際的に使うわけですから、学会の論文以上の価値がある場合が多々あるのです。論文は読んだら終わり(すべてとは言いませんが)という側面が強いところがありますが、少なくとも標準化された技術や製品は多くに人々が使ってくれるわけです。それは標準化へ取り組む非常に大きなモチベーション(動機や意欲を与えること)なのです。
■それが標準化の原点なのですね。
〔2〕標準化の第2段階
井上 その第1段階を経ると、今度はビジネスを考える第2段階にきます。すなわち、自分たちが作ったものを世界に認めてもらうことによって、あるいは、標準化することによって、自分たちが何らかのビジネス上のメリットを得たいと強く思うようになります。これが今話題のIPR(Intellectual Property Rights、知的財産権)ということにつながるわけです。そうなると、基本は、標準化することによって特許料も含めてどれだけビジネスが生まれるか、ということになります。したがって、ビジネスの金勘定と見合いながら標準化に取り組むようになっていきます。
■最近は、そのIPRが特に重視されるようになりましたね。
〔3〕標準化の第3段階
井上 次に、標準化作業に参加し、活動していく場合には、標準化のための組織への加盟費用、人材配置や出張旅費、標準化のための社内会合から資料作りまで、かなりの費用がかかりますから、それがほんとうに金勘定と見合うのかどうかというのを精査していくようになります。その結果、他の人がつくった標準をもとにして、自分でいち早く製品をつくってしまうほうがメリットあるのではないか、と考えるようになります。そうすると、例えば、安くしかも品質のよい製品がつくれれば、標準化作業に参加しなくてもよいのではないか、というようになってきます。これが第3段階です。
≪2≫標準の3つの種類「デ・ジュール、デ・ファクト、実力」
井上 このように、標準化というのはこの3つの段階があるのです。いずれにしても、一般に、世界中で使われる技術や製品というのは、どのような形であれ、標準化されていないものは使われない場合が多いのです。この標準には、デ・ジュールと言われる、いわゆる政府の公的機関のお墨つきを得たような国際標準と、デ・ファクトといわれている市場(マーケット)がきめる業界標準があります。さらにもう一つ、デ・ファクトにもしないで、実力で世界の市場を勝ち取ってしまう方式もあります。例えば、マイクロソフトのWindowsなようなものがそうですね。このように、標準には、「デ・ジュール、デ・ファクト、実力」という3つの種類があるのです(図2)。
これらの3種類の標準を念頭に置きながら、ビジネスの側面から考えますと、前述した3つ段階の標準化のうちどれをとるのか、どれだけ自分が貢献すると最大の利益を得られるのか、というようなことが、最近の標準化活動の場面、場面で複雑に絡んできています。残念なことですが、今の日本は、最初に言ったような、非常に純粋な気持ちで「おれたち、やったぜ」というようなところから、標準化の活動が離れてきていますね。ビジネスへの利益が最も重視されるようになってきています。私自身は標準化活動について、第1段階のところから第2段階の入り口にかけてやりましたので、第1段階の意気込みが少なくなってきたという感じがしていまして、とても残念なことだと思っているのです。
≪3≫意欲的な中国と韓国の標準化への取り組み
■今、NGNやIPTVあるいはモバイル(携帯電話)などの新しい技術に対して、中国や韓国などの標準化への取り組みはかなり意欲的ですよね。
井上 そうですね。現在の中国や韓国は、間違いなく第1段階の意気込みで標準化活動に取り組んでいます。もちろん第2段階のビジネス的な側面ももっていますが、「おれたちの技術を世界に使わせたい」というモチベーションは非常に強いものがあります。また、中国は、これまでIPRの分野で取り組みが弱かったこともあり、標準化による知的財産権(IPR)の獲得については非常に熱心で、国を挙げて取り組んでいます。
このような背景もあり、これまでのIPRの遅れを挽回しリードするために、中国は情報通信の世界では、必ず中国製の規格を提案し決めてきつつあります。例えば、有名な話ですが、第3世代の携帯電話について、中国のアーキテクチャーを提案し、ITU-Rで中国用のアーキテクチャーとして「TD-SCDMA」(※1)方式を認めさせたり、あるいは映像圧縮技術の国際標準であるH.264/AVCに対抗して、AVS(Audio Video Coding Standard)という中国での標準方式を独自に国策として開発したりして、IPRに非常に敏感になってきています。
※1 用語解説
TD-SCDMA:Time Division Synchronous Code Division Multiple Access。時分割複信(TDD) 方式による同期符号分割多元接続。第3世代(3G)携帯電話の無線インタフェー ス方式の一つ(正式名称:IMT-2000 CDMA TDD)。
1999年にITU-Rで勧告化された、W-CDMAやCDMA2000などと並ぶIMT-2000の標準無線インタフェースのうちの一つ。中国から提案され勧告化(標準化)された、歴史的なインタフェースのため、中国政府はTD-SCDMAによる商用サービスに向けて、国をあげて積極的な取り組みを展開している。
TD-CDMA方式が下り(基地局からユーザー端末の方向)のみ同期を取るのに対し、TD-SCDMAは、上り(ユーザー端末から基地局方向)も同期(Synchronous)をとる(すなわち、上りと下りの両方で同期をとる)方式である。このため、TD-CDMAに「S」(Synchronous)と言う文字が追加されている。
中国がなぜそのように熱心に標準化に取り組んでいるかというと、標準化によって特許(IPR)をとっていくのです。つまり、今度は世界に対して、TD-SCDMAやAVSを使ってビジネスをやる場合は、「中国に特許料を支払ってください」ということになるわけです。これまでIPRに弱かった中国は、IPRに強い中国へと脱皮しようとしているのです。
■なるほど。中国の人口は13億ですから、EU(欧州)の5億、米国の3億、日本の1.2億に比べても桁違いの人口の多さですものね。
井上 ですから、中国の特許を使用した製品で、中国市場であるいは国際市場でビジネスを行う場合は、当然、「特許料を支払ってください」と、いえますよね。中国市場は桁違いに大きいですから、特許料だけでも、今のIPRを逆手にとれば、相当な金額が入ってくることになります。すなわち、従来と異なり、今度はIPRで批判を受けていた中国が攻勢に転じ、中国のIPRを主張する時代を迎えているのです。当然のことと思いますが、このような作戦を、中国は着々と考えているのではないかと思います。中国がIPRを重視するというのは、世界にとっても歓迎すべきことですし、今後、国際的に見ても非常に大きな影響力をもつようになると思います。
≪4≫GSMをNGNまで発展させた欧州勢の底力
■たしかに今後、影響力が大きくなっていくと思いますね。ところで、地域的に見た場合に、欧州勢の動向はどうなのでしょうか。
井上 欧州勢は、GSM(※2)という携帯電話システムを世界中に普及させ、大きな成功を収めました。このGSMを第3世代の「W-CDMA」へ引き継いで発展させ、さらにそれにIMSという技術を付加させて次世代ネットワークの「NGN」まで発展させています。したがって、現在でもGSMの特許を活用し、その特許でビジネスできるようになっているのです。この欧州勢のGSMの成功の背景には、まず欧州で技術をつくると、そのGSMの技術を欧州の標準化組織であるETSI(※3)中で大体の合意をとり、その内容を固めておいて、国際標準化機関のITUに提案して標準化(ITUがスタンプを押す)し、あとは国際展開によって、世界に広めるというシナリオでしたが、これが大変うまくいったのですね。
※2 用語解説
GSM:Global System for Mobile communications、欧州の第2世代 (デジタル)携帯電話の標準規格。欧州勢は、この第2世代のGSMのコア・ネットワークを、第3世代のW-CDMAのコア・ネットワークに引継ぎ、さらにオールIP化を目指してIMSを開発し、IMSをそのコア・アネットワークに導入。NGNは、このIMSによるコア・ネットワークをベース標準化された規格となっている。すなわち、GSMの中核部のコア・ネットワークが、W-CDMAに引き継がれ、さらに今日のNGNへと、発展的に引き継がれていることになる。
※3 用語解説
ETSI:European Telecommunications Standards Institute、欧州電気通信標準化機構。欧州の電気通信主管庁、電気通信事業者、メーカー、ユーザー、研究機関などで構成される標準化組織。情報技術/電気通信/放送および、それらの境界領域の標準化などを推進している。NGNの標準化を目指すTISPAN(タイスパン)は、ESTI内の次世代ネットワーク(NGN)関連技術の標準化目指すプロジェクトのひとつとなっている。
TISPAN:Telecoms & Internet converged Services & Protocols for Advanced Networks、欧州の電気通信関連の標準化団体であるESTIのプロジェクトの一つ。最近ではNGNの標準化を目指したプロジェクトとして有名(2003年に設立)。
このような標準化のプロセスのよいところは、欧州のETSI(欧州電気通信標準化機構)で標準化の検討を行えば、ITU(国際電気通信連合)に参加している国の数(191カ国)に比べて圧倒的に少ない国の参加で審議できることです。ITUというのは国連傘下の組織(図3)ですから、世界のすべての国が参加できるということが原則になっています。これは先ほど述べたデ・ジュールの宿命なのですけれども、経済的に余裕の少ない開発途上国も参加できるようにしなければならないのです。
例えばある標準化の会合をジュネーブで1回やって、その1週間後にまた標準化会合やるという場合、旅費や宿泊費がない国は参加しにくいのです。さらに、それをやる運営費(会場費なども含めて)は、各国から徴収した年会費によって予算を立てて使っていますから、例えば会合を10回やると、お金(予算)がなくなってしまうのです。このような問題を解決するために、ITUでは例えば大きな次の会合は、例えば6カ月以内に開いてはいけない、というようなことまで取り決めて運営しているのです。
■ITUの標準化活動に、そのようなご苦労があるのは知りませんでした。
(つづく)
プロフィール
井上 友二(いのうえ ゆうじ)
現職:(社)情報通信技術委員会(TTC)理事長・事務局長
1971年 九州大学工学部電子工学科卒
1973年 九州大学大学院工学研究科修士課程電子工学専攻了
1973年 日本電信電話公社に入社し、横須賀電気通信研究所を最初に通信網構成技術や伝送技術等の研究に従事
1982年~1992年まで CCITT SG18(現ITU-T SG13)における国際標準化作業に参加し貢献。その後、NTTマルチメディアネットワーク研究所長、(株)NTTデータ取締役・技術開発本部本部長、NTT取締役・第三部門長等を歴任
2006年 NTT取締役・CTO
2007年4月よりTTC専務理事・事務局長に就任し、6月より現職