[インターネット・サイエンスの歴史人物館]

連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(5)ジェイ・フォレスタ

2007/02/02
(金)

リンカーン・プロジェクトの発足

空軍は12月15日に、MITにADSECのプロジェクトを担当する研究所の設立を要望した。MIT総長のジェームズ・キリアンは、核攻撃に対する防空システムは重要だと考え、研究施設の管理監督を引き受けたが、学内にはADSEC構想の妥当性を疑う学者もいた。このため、元MIT放射線研究所の副所長でイリノイ大学教授のウィーラー・ルーミスを議長とする委員会が編成され、ADSEC構想を技術的・経済学的に検討することになった。

フォレスタのグループは、1951年1月までCRTメモリのエラー対策に追われていたが、3月にWhirlwindの運用を開始した。空軍ケンブリッジ研究所は、レーダーの情報をデジタル化して電話回線でバータ・ビルに送信できるようにしていた。フォレスタとマーチェッティは接続実験を繰り返し、1951年4月20日、2機の航空機を追跡するレーダー情報をWhirlwindが処理し、迎撃機に位置情報を伝える実験を、ルーミスの委員会のメンバーに公開した。

この実験により、ADSEC構想は妥当性があると判断され、MITが防空研究所を設立する契約は1951年7月26日に成立した。新研究所は、ハンスコム空軍基地に隣接するレキシントンにMITが所有する土地に建築され、1953年に竣工する見通しになった。防空システムの研究は、1951年8月にリンカーン・プロジェクトと命名され、旧放射線研究所のMIT22号ビルで始まった。

【写真】Whirlwindの開発拠点バータ・ビル(下記PDF4ページ目の上写真)
Overview of the Lincoln Laboratory Ballistic Missile Defense Program (PDF)
http://www.ll.mit.edu/news/journal/pdf/vol13_no1/13_1overview.pdf

3次元構造のコアメモリの発明
磁束の変化をメモリに応用

CRTメモリはランダム・アクセスを可能にしたが、寿命は1ヶ月程度だった。フォレスタは1947年4月に、「3次元のデータ・ストレージ」という論文で、電圧と電流の比率が2状態(電圧と電流の比率を変化させて0と1の状態に対応する)になるガス放電管を試作し、メモリに応用できるか研究していた。
フォレスタは1949年春に、「デルタマックス」という電流により極性が変わる磁性材の広告を見て、メモリに応用できるか試した。

しかし、極性の切り替えに10ミリ秒かかり、メモリにするには遅すぎた。フォレスタは次いで、ジェネラル・セラミクスの技術者が書いたフェライト磁石の記事を読み、磁束が変化する特性をもつことを知った。彼は、その技術者に特性が異なるサンプルを依頼すると、30マイクロ秒で極性が変化することを確認した。

CRTメモリは10マイクロ秒で応答するため、フォレスタはジェネラル・セラミクスに改良を求め、1950年10月にスイッチング速度が20マイクロ秒のメモリを試作した。彼はCRTメモリと同等の応答速度は可能になると確信し、複数の企業に要件を示して異なる材質の磁性材を求め続けた。フォレスタの大学院生は、16X16(256コア)のマトリクス状のメモリを形成して、データの読み書きを繰り返し実験し、性能を測定した。

コアメモリは、ドーナツ型の磁性材(コア)を4本のワイヤで編み上げたもので、2本のワイヤがXY座標でアドレスを指定する役割を担い、残り2本のワイヤで0か1かを制御する。各コアの初期状態は0で、アドレスを指定して通電すると0が1に変化し、1の場合のみ出力ワイヤに電圧がかかる。0を書き込む場合は、初期状態が変化しないように、もう1本のワイヤで相殺電流をかける。フォレスタは1952年6月に、256コアのメモリで6マイクロ秒以下の応答速度を得て、さらに4マイクロ秒のメモリの実用化にめどをつけた。

写真3

写真1 コアメモリをもつ
ジェイ・ライト・フォレスタ
Photo: Courtesy MIT Museum

この当時、磁束の変化をメモリに応用するアイデアには、ロンドン大学のアンドリュー・ブース、RCAのジャン・ラジクマン、ハーバード大学のアン・ワング、イリノイ大学のマイク・ヘインズが着目して論文を発表していた。ラジクマンは、フォレスタより7ヶ月前の1950年9月30日に特許を出願していたため、RCAは特許訴訟を起こした。

この訴訟はMITとIBMを巻き込み約7年争われるが、3次元構造のメモリの考案者としてのフォレスタの立場は揺るがなかった。コアメモリの最大のユーザであったIBMとMITの間でも特許料の支払い問題が生じたが、IBMは1964年2月に1,300万ドルの支払いに応じた。他の企業もコアメモリを使用していたため、MITは総額2,200万ドルという膨大な特許収入を得た。

コアメモリが実現したオンライン・システム

ヴァレイとフォレスタは1953年1月、レーダー網のデータをコンピュータでオンライン処理する防空システムの技術的詳細を記載した報告書を空軍に提出し、同年9月にマサチューセッツ州ケープコッドのレーダー管制基地とバータ・ビルの指令センターを回線で接続して実験を行うことを提案した。

この報告書は、SAGE(Semi-Automatic Ground Environment)と呼ばれる本番システムの技術的詳細を記していた。レーダーとデータ伝送を担当してきたヴァレイのグループのジョン・ハリントンは、SVC(slowed-down video)という映像データの伝送方式を開発し、デジタル・データを専用電話回線のアナログ信号に乗せて、1,300bpsで伝送できるモデムを開発した。

また、エヴェレットは、受信した映像上の光点を受光素子を備えたライトガンでとらえられるグラフィック・ディスプレイを開発した。ライトガンにより、オペレータはレーダー画面の光点をワンクリックで入力でき、Whirlwindはその情報から敵機の方位、高度、速度を画面に表示する。さらに敵機の航路を予測できる情報が揃うと、迎撃機のパイロットに敵機の将来の位置情報を伝えた。

ケープコッドの実験では、12台のレーダーで100機の航空機を追跡し、25機の迎撃機を誘導することを目指した。フォレスタは1953年春に、2バンクのCRTメモリで2,048ビットのレジスタを構成し、メインメモリと磁気テープの間に、磁気ドラム装置を導入することにした。

1953年6月には、32X32(1,024コア)のメモリが17枚製造され、フォレスタは7月に2,048ワードのコアメモリをWhirlwindに搭載した。コアメモリはCRTメモリの倍の8マイクロ秒のアクセス時間を実現し、Whirlwindは1秒間に約40,000回の演算を処理できるようになった。加算8マイクロ秒、乗算25.5マイクロ秒、除算57マイクロ秒の性能をもつWhirlwindは、名実ともに世界最速のコンピュータになった。ケープコッドの実験では、48機の航空機を追跡することに成功し、ケネディ政権は10月30日に北米をカバーする防空システムの構築を承認した。

そして1年後に、ケープコッドとニューヨーク州東端の岬モントークの長距離レーダー基地がカバーする半径320kmの空域で、3度目の実験を行うことになった。Whirlwindは、12,500本の真空管と23,800個のダイオードのシステムに拡張され、1954年12月16日に実験を実施した。

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