パーソナル・コンピューティングの先駆者
ウェズリー・クラークが1956年に完成させた「TX-0」は、トランジスタを採用した最初期のコンピュータで、ライトペンが使用できるグラフィック・ディスプレイを備えていた。TX-0は、ディスプレイとキーボードで対話でき、MITの学生はパーソナル・コンピューティングを初めて体験した。1959年に完成した大型マシンの「TX-2」は、コンピュータの大陸横断接続実験を行い、ARPANETを実現するうえで重要な役割を果たした。クラークはまた、国立衛生研究所の助成を受けて、生物医学研究のための小型マシン「LINC」(Laboratory Instrument Computer)を設計した。さらに、非同期コンピュータの先駆的な研究を行い、ルータの原点となるアイデアを案出した。
理論物理学に挫折してプログラマに
ウェズリー・クラークは、1927年4月10日に米国コネティカット州ニューヘブンで生まれた。農場で働く父と、結婚前は教師だった母の間に、2人の姉に続く3番目の子供として生まれた。家族はニューヨーク州オールバニー近郊のキンダーフックに転居したが、大恐慌の最中にサンフランシスコの近郊に移りチェーンストアを営んだ。クラークは1944年に海軍に入隊し、南カリフォルニア大学の将校予備役訓練課程に入った。1946年に海軍を除隊すると、彼はカリフォルニア大学バークレー校に入り、1947年に物理学の学位を取得した。
クラークはパークレー校の大学院に進み、ロバート・オッペンハイマーを含む教授陣の指導を受けたが、修士号を得ずに中退した。クラークは1949年に、ワシントン州ハンフォードのゼネラル・エレクトリックの原子炉の職を得、原子炉を停止させる条件を卓上計算機で算出する仕事に就いた。
彼は計算機の文献を読みあさり、デジタル・コンピュータに惹きつけられた。クラークは1951年に、ジェイ・フォレスタが設立したMITデジタル・コンピュータ研究所(DCL)に採用された。彼はフォレスタが設計したWhirlwindで、プログラミングを学んだ。彼は、トランプの束をソートするプログラムを記述し、プログラミングの指導者になった。
Whirlwindは当初、CRTメモリを利用していたが、フォレスタは磁性材料のフェライトコアでメモリの信頼性と性能を向上させようとしていた。ケン・オルセン、ハーラン・アンダーソン、ウィリアム・ペイピアン、ベンジャミン・ガーリィは、フェライトコアの特性の均一性をテストするコンピュータ(MTC)を1953年に完成させた。
クラークは物理学者のベルモント・ファーレイに誘われ、CRTディスプレイを備えたこのコンピュータで対話型コンピューティングを経験し、ハードウェアの詳細を学んだ。ファーレイとクラークは、MIT通信生物理学研究所(CBL)教授のウォルター・ローゼンブリスから、人間の脳神経における電気信号の役割を学び、MTCで信号処理をシミュレーションするためのプログラムを書いた。
最初のトランジスタ・コンピュータ「TX-0」
DCLは1955年春に、MITキャンパスから15マイル西にあるMITリンカーン研究所のアドバンスト・コンピュータ開発グループになり、クラークは論理設計を担当するチーム・リーダーに任命された。クラークはMTCの36倍、Whirlwindの6倍の64キロワードのメモリが利用できる36ビットのコンピュータの開発を提案した。エンジニアリングを率いていたオルセンは、クラークに賛同して真空管コンピュータの設計に加わり、TX-1の名で研究所の幹部に製造の認可を求めた。しかし、この提案は却下され、かれらはTX-0の名で4キロワードのメモリをもつ18ビットの小型マシンを設計することになった。
TX-0は1956年4月に、約3,600個のトランジスタで構成され、次いで8月に256個×256個のフェライトコアのパネル20枚による65キロワードのメモリが搭載された。このメモリのドライバ回路は約400本の真空管で実現された。TX-0の基本回路は、10個のトランジスタをガラス管の中に挿入したもので、下部に電極があり、真空管と同じようにソケットに差し込めた。TX-0のメモリのサイクル時間は6マイクロ秒で、1秒間に約8万の命令を実行できた。
TX-0はライトペンが利用できるグラフィック・ディスプレイ、オーディオ・アンプ、スピーカーを備え、タイプライタと光電素子を使用した紙テープリーダーでプログラムを入力して、CRTとタイプライタで出力できた。TX-0は、トランジスタで実現された最初の汎用コンピュータで、パーソナル・コンピュータの特色を備えていた。トグルスイッチの操作で、組み込みプログラムを起動させて、プログラムを入力する準備を整えることができた。TX-0は研究所の幹部に評価され、クラークは次世代機の開発を認められた。
ペイピアンがリーダーとなってTX-2の設計が始まり、オルセンがトランジスタ回路のモジュールを完成させると、チームメンバーはTX-0をMITの電子研究所(RLE)に貸与することにした。65キロワードのメモリはTX-2に流用することにし、4キロワードのメモリのTX-0が、1958年7月にRLEのジャック・デニスに届けられた。
デニスはTX-0のアセンブラを設計して学生にプログラミングを教え、3台の紙テープ・ライタを利用できるようにした。ダグラス・ロスとジョン・ワードは、ネズミが迷路を脱出するゲームを記述し、RLEの研究生だったゴードン・ベルは、IBMの磁気テープ装置と音声入力装置をTX-0に接続して音声分析と音声認識を研究した。