[インターネット・サイエンスの歴史人物館]

連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(12)ジョン・マッカーシー

2008/01/29
(火)
ジョン・マッカーシー

ジョン・マッカーシーは、1956年にダートマス大学で最初の人工知能の研究会を開催し、MITでプログラミング言語LISPを開発し人工知能発展の礎を築いた。マッカーシーは人工知能研究のために対話型の情報処理を求め、1台のコンピュータを多数のユーザが共有するタイムシェアリング・システムの実現可能性を探った。かれは1961年のMIT創立100周年の記念講義で、利用した時間だけ料金を支払う「情報ユーティリティ」としてのコンピューティングが到来することを予言した。この未来予測に共鳴したJ.C.R.リックライダーは、タイムシェアリング・システムの実用化を試み、さらに国防総省高等研究計画局(ARPA)で全米規模の情報処理ネットワークを構想し研究者を動員することになる。

フォン・ノイマンとシャノンとの出会い

ジョン・マッカーシーは1927年9月4日に、ジョン・パトリックとアイダ夫妻の息子としてボストンで生まれた。父親はアイルランド系の造船工で、母親はリトアニアから移民したユダヤ人家系出身で通信社の記者として働いていた。両親は湾港労働者の組合活動や婦人参政権運動に関わり、ボストン、ニューヨーク、ロサンゼルスなどの大都市を転々とし共産主義者として活動した。ジョン・マッカーシーは1930年代初めにソ連で出版された「10万の謎(100,000 Why)」という科学啓蒙書を読み、10歳の頃に科学者に憧れるようになった。

マッカーシーは1943年にロサンゼルスのベルモント高校に入学し、2年生になるとカリフォルニア工科大学の微積分の教科書を購入し、練習問題に没頭した。 そして、46年にカリフォルニア州パサデナの同大学に入学すると、数学の教養が認められて3回生に進級できた。かれはさらに数学科の大学院に進み、48年9月20日にジョン・フォン・ノイマンの講演を聴く機会に恵まれた。ノイマンは著名な数学者だが、ヒクソン・シンポジウムとして知られるこの会議の参加者は主に生化学者で、当時のカリフォルニア工科大学には後にノーベル生理学賞と化学賞を受賞するマックス・デルブリュックとライナス・ポーリングが教授として在籍していた。

ノイマンの講演「アナログ網とオートマトンの論理」は、1951年に「オートマトンの一般的論理学理論」の表題で出版され、かれはこの論文を皮切りに自己増殖オートマトンの論文を4編執筆した。ノイマンは講演で、脳のニューロンを論理スイッチ素子として考え、機械と生物の知能を比較した。マッカーシーはノイマンの研究に惹きつけられ、1950年にプロクター・フェローの奨学生としてプリンストン大学数学科の博士課程に入った。かれは相互作用する有限状態オートマトンで知能をモデル化する研究を、プリンストン高等研究所のノイマンに提案した。ノイマンは論文を執筆するように薦めたが、マッカーシーは数学を厳密に適用できず博士論文のテーマにすることを断念した。

かれは51年に、「射影演算子と偏微分方程式」と題した20頁の論文で博士号を得、プリンストン大学数学科のリサーチ・インストラクタになり、機械の認知能力に関する研究動向を調べ始めた。マッカーシーは、50年にチェスのプログラムの論文を執筆したベル電話研究所のクロード・シャノンと51年にニューロコンピュータ「SNARC」を制作したプリンストン大学数学科の大学院生マービン・ミンスキーの研究に着目し、この2人に論文集の出版を提案した。シャノンは「オートマトン研究」の論文集にすることを条件に同意し、マッカーシーとミンスキーは52年と53年の夏をベル研究所で過ごし、シャノンの指導を受けながら論文を執筆した。

マッカーシーの論文「チューリングマシンで定義された逆関数」は、チューリングマシンから出力された記号列から入力された問題を推論する帰納的推論を扱っていた。「オートマトン研究」はその後、フォン・ノイマンを含む13人の論文を集めて、56年にプリンストン大学から出版された。

ダートマス人工知能夏期研究会

マッカーシーは1954年にスタンフォード大学の数学講師の職を得たが、プリンストン大学大学院の先輩で53年にダートマス大学の教授になったジョン・ケメニーからダートマス大学移籍の誘いを受けた。ケメニーとマッカーシーは、コンピュータとオートマトンの関心を共有していた。ケメニーは54年に数学部長になり助教授の職を提示したため、マッカーシーは55年2月に移籍した。ただ、ダートマス大学にはコンピュータがなかった。そんな折、IBMがMITに新設された計算センターにIBM 704を寄贈し、MIT以外の米東北部の大学にも利用時間を割り当てるという話が、ダートマス大学に伝えられた。

マッカーシーは55年春にIBMの研究者と会い自分の研究を紹介すると、その夏にニューヨーク州ポーキプシーのIBMの研究所に招かれた。かれはIBMのコンピュータでプログラミングを学び、IBMの最初のノイマン型コンピュータIBM 701のプロジェクトリーダーのナサニエル・ロチェスタやチェッカープログラムの開発者アーサー・サミュエルと交流した。かれはロチェスタ、シャノン、ミンスキーに働きかけ、1956年夏に2ヶ月間ダートマス大学で認知能力をもつ機械について研究会を開催することに同意を求めた。マッカーシーはこの会議の目的を、「人間が抱える問題を解いたり改善するマシンの作り方の検討」とし、それを明確に伝える言葉として数ある候補の中から「人工知能」を選んだ。

かれは、「人工知能に関するダートマス夏期研究プロジェクトの提案」を記述し、55年8月31日にロックフェラー財団に参加者1人あたり1,200ドルと鉄道運賃の助成を求める依頼書とともに送付した。ロックフェラー財団は7,500ドルの助成に同意し、研究会は56年6月に開催できることになった。研究会はシャノン、ロチェスタ、ハーバード大学の数学と神経生理学のジュニアフェローになったミンスキー、マッカーシーの発起人に加え、IBMからサミュエル、ハーバート・ゲランター、トレンチャード・モア、MITのオリバー・セルフリッジ、レイ・ソロモノフが参加した。この他、IBMのニューヨーク本社でチェスプログラムを開発したアレックス・バーンスタインが2日間、会議の終盤になってカーネギー工科大学のハーバート・サイモンとアレン・ニューウェルが参加した。

研究テーマとしては、コンピュータに言語を使わせる方法、ニューロン網の理論、知的マシンが自己の活動を改善したり集めたデータを抽象化する枠組み、創造性に寄与するランダムネスの制御が取り上げられたが、建設的な議論は容易には導けなかった。この研究会で具体的に検討できる材料は、チェッカーとチェスのプログラムしかなかった。

しかし、サイモンとニューウェルは8月9日に、「ロジック・セオリスト」というプログラムの実行結果を持ち込み、コンピュータで命題論理が扱えることを示して研究会の話題をさらった。かれらは、ラッセルとホワイトヘッドが1913年に著した「数学原論」の定理証明を可能にするプログラミング言語について解説した。IPL-II(Information Processing Language)と名づけられた言語は、ニューウェルがチェス盤の情報を述語論理で表現することを着想し、ランド・コーポレーションのクリフォード・ショウの協力を得てノイマン型コンピュータのJONNIACのアセンブラで開発された。IPL-IIは最初のリスト処理言語で、再帰、結合検索、動的メモリ割り当てなどを実現していた。

ダートマス研究会は、マッカーシーが期待した成果を上げたわけではなかったが、人工知能研究の出発点とみなされるようになった。ダートマス大学は2006年7月13日から15日に、人工知能研究50周年を記念してマッカーシー、ミンスキー、セルフリッジ、ソロモノフを招き「AI@50」会議を開催した。

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