[インターネット・サイエンスの歴史人物館]

連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(14)ジョン・ジョージ・ケメニー

2008/03/11
(火)

ジョン・ケメニーは1964年にダートマス大学で、タイムシェアリング・システム(TSS)を利用したコンピュータ教育を始め、全米科学基金(NFS)の評価を得て米国北東部の複数の大学や高校を対象にした教育目的の広域コンピュータ・サービス網を最初に構築した。DTSSと呼ばれたTSSの利用者は67年に7,500人になり、その後50以上のシステムのコピーが他の教育機関にも設置され、GEはDTSSの商用サービスを提供した。これらのネットワークでは、ケメニーとトーマス・カーツが開発した対話型プログラミング言語BASICが利用でき、プログラミング人口を大幅に増やすことに貢献した。

ジョン・ジョージ・ケメニー

天才科学者に薫陶を受けた半生

ジョン・ジョージ・ケメニーは1926年5月31日に、ハンガリーのブタベストで生まれた。両親は雑貨の輸出入で生計を立てるユダヤ人で、ジョンは姉を含む4人家族で、13歳まで東欧の都会で育った。1938年にナチス・ドイツのオーストリア侵攻が始まると、父は米国に渡り40年初めに家族をハンガリーから脱出させた。母子3人は列車でイタリアのジェノバに逃れ、ニューヨーク市行きの船に乗ることができた。

ケメニーは英語を話せなかったが、ジョージ・ワシントン高校に入学した。この高校はマンハッタン北部のハドソン川沿いのジョージ・ワシントン・ブリッジの近くにある。ケメニーは学業で頭角を現し、44年に主席で卒業して奨学金を得てプリンストン大学に進学し、米国の市民権も取得した。数学と哲学を専攻していたケメニーは、太平洋戦争終結直後の45年9月に、原爆の開発拠点のロスアラモス研究所の計算センターのスタッフに徴用された。

ケメニーはここで、2人の天才ユダヤ人の元で微積分方程式を解く仕事に就いた。1人は同郷のプタペスト生まれの数学者でプリンストン高等研究所教授のジョン・フォン・ノイマン、もう1人はプリンストン大学で博士後を取得した物理学者で後にノーベル賞を受賞するリチャード・ファインマンである。ロスアラモスでは戦時中IBMのパンチカードマシンで、爆縮予測などの微積分方程式を加算と乗算に分解し、多くの女性が1日3交代制で計算に従事していた。

ケメニーが着任した当時は、ペンシルバニア大学ムーア校のENIACが完成間近で、水爆設計のための計算をENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer、エニアック)で行うため約50万枚のパンチカードの準備に追われていた。物理現象を予測するために考案された計算法を、電子計算機で実行できるように、パンチカードに展開するために、優秀な数学者や大学院生が動員された。ケメニーはフォン・ノイマンからENIACとEDVAC(Electronic Discrete Variable Automatic Computer、電子式離散変数自動計算機、エドバッグ)の解説を直接聞くことができ、黎明期のコンピュータ利用の現場で仕事をすることができた。

ケメニーはロスアラモスで1年間過ごし47年に最高の成績で数学の学位を取得し、大学院に進んだ。かれは48年秋に、ユダヤ人科学者アルバート・アインシュタインの研究助手になり、提示される計算問題に取り組みながら、49年に数理論理学の論文で数学博士になった。ケメニーはプリンストン大学の数学と哲学の講師になり、マサチューセッツ州のスミス・カレッジの学生でプリンストン大学の講義を聴講していた19歳のジーン・アレクサンダーと50年11月に結婚した。

ダートマス大学の計算機科学事始め

ケメニーは51年にプリンストン大学の助教授になり、53年にニューハンプシャー州の男子校ダートマス大学の数学教授に招聘された。かれは翌年に数学部長に任じられ、カリキュラムの編成と博士課程創設の責任者になった。チューリングマシンやオートマトンの研究にも通じていたケメニーは、プリンストン大学数学科博士課程の後輩ジョン・マッカーシーを助教授として招いた。

55年2月にダートマス大学に移籍したマッカーシーは、大学院時代の同僚マービン・ミンスキーとベル研究所のクロード・シャノンの元でオートマトンを研究し、「認知能力をもつ機械」を新しい研究領域として立ち上げる機会を模索していた。かれは55年夏をIBMポケプシー研究所に招かれ、脳神経網の研究やチェッカープログラムの研究者と交流し、翌年の夏にダートマス大学で共同研究会を開催することを提案した。

ケメニーはコンピュータの認知能力についてはマッカーシーほど楽観的ではなかった。かれはScientific American誌の55年4月号に寄稿した「機械として見た人間(Man Viewed as a Machine)」で、コンピュータが人間の脳の大きさで人間の脳のように複雑なことが扱えるまえに長い道のりが必要だと書いていた。しかし、マッカーシーは行動力を発揮し、一流の研究者の同意を取り付けた。

マッカーシーは、シャノン、ミンスキー、IBMのナサニエル・ロチェスタを共同発起人として、「人工知能に関するダートマス夏期研究プロジェクト」の提案書を記述し、ロックフェラー財団に7,500ドルの助成を申請した。この申請は認められ、ダートマス大学は史上初の人工知能研究会の開催地として、歴史に名を残すことになった。マッカーシーはこの会議でIPL-IIIPL-II(Information Processing Language、情報処理用言語)というリスト処理言語に出会い、後に人工知能言語LISP(LISt Processing、リスプ)を開発する。

ケメニーはダートマス大学に赴任する直前にカリフォルニア州サンタモニカのRANDコーポレーションで、マッカーシーはIBMのポケプシー研究所で、プログラミングを学んでいた。しかし、大学にはコンピュータがなかった。IBMがMITにIBM704を寄贈したことにより、56年にMIT計算センターが開設され、近隣の大学にも利用時間が割り当てられた。MITはダートマス大学が所在するハノーバーから南東216kのボストンにあり、かれらは列車でパンチカードを持参して、翌日に計算結果を受け取ることができた。

ケメニーは56年にプリンストン大学で数学の博士号を取得したトマス・カーツを採用し、ダートマス・シンプリファイド・コード(DARSIMCO)というプログラミング言語の設計を始め、カーツが主にMIT計算センタに通う役割を担った。57年4月にFORTRANが利用できるようになると、MIT計算センタの利用者が10倍に増加した。ケメニーは人間は時間さえかければ、チューリングマシンのようにどんなことでも学べると考えていたが、コンピュータが理解できる人間の言葉をつくれば利用者が短期間で急増することを実感した。

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