伝説のプレゼンテーション
ARCのメンバーは68年半ばに、テキストファイルを「スクロール(巻物)」の概念で扱えるようにし、挿入、削除、コピーの編集機能、さらにテキスト内に記号を埋め込んで階層化し、ジャンプやリンクを簡単な命令で実行できるようにした。テキストの階層はアウトラインと呼ばれ、章や節の先頭を表示したり、リンク先を別のウインドウに表示することができた。
エンゲルバートは半年後にサンフランシスコで開催される秋期合同コンピュータ会議で、90分間のデモを行えるように申請し、シナリオを記述してイングリッシュに準備を任せた。イングリッシュは電話会社からマイクロ波のビデオ回線をリースする契約を結び、SRIと48キロ離れたサンフランシスコのシビック・オーディトリアムを接続するパラボラアンテナの配備を手配した。また、NASAからビデオプロジェクタとビデオ信号を切り替える装置を借り、会場からキーボードやマウスなどの入力信号を電話回線で送る1,200bpsのモデムと音声通信用インターコムを製作した。
68年12月9日の朝、エンゲルバートはオーディトリアムのブルックスホールの演台で、対角6.6メートルのビデオスクリーンを背にして、イヤホンマイクを頭部につけて座っていた。会場の後方のブースではイングリッシュが、演台の2台のカメラの操作とSRIから送られる2系統のビデオ信号を切り替えて表示する役目を担っていた。
エンゲルバートはテキスト編集、リンクへのジャンプ、テキストとビデオ映像をウインドウで同時に表示できることを示し、ARPANETを利用すれば遠隔地にあるコンピュータ間で同様のことが可能になると述べた。続いてSRIにいるルリフソンがリアルタイム映像でNLSのソフトウェアを説明し、画面の左上部にピクチャー・イン・ピクチャーでプログラマのビル・バクストンとビデオ会議をする様子が実演された。
会場には約1,000人の観衆が詰めかけ、後にゼロックス・パロアルト研究所でAltoやSmalltalkを開発するバトラー・ランプソン、チャック・サッカー、アラン・ケイに鮮烈な印象を与えた。このデモは、「すべてのプレゼンテーションの母」と呼ばれた。
ARPANETの接続実験
ARCは68年6月に、ARPANETの最初のノードとなる4拠点の1つに選ばれた。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、SRI、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)、ユタ大学の大学院生によるネットワーク・ワーキング・グループ(NWG)が68年夏にUCSBでの会合で形成され、10月にNWGの最初の会議がSRIで開催された。NWGのメンバーになったSRIのルリフソンとビル・デュバルは、異なる種類のコンピュータがネットワーク経由で利用できるプログラムの実現方法を会議の前に提案した。
ルリフソンが考案したDEL(デコード・エンコード言語)は、狭い帯域幅でも転送できる小さなインタプリタを、各サイトでセッション時にダウンロードし、共通の言語で記述されたプログラムを実行する。UCLAのスチーブ・クロッカーが69年4月7日に記述したRFC-1では、ARPANETでNLSを利用することを想定し、NLSをテレタイプ端末とDELで遠隔操作できるように変更するように提案した。また、デュバルはRFC2で2台のコンピュータが実際に交信しているのかを確認するプロセスを、「イニシャル・チェックアウト」の名称で記述した。
ルータの役割を果たすIMP(Interface Message Processor)を開発したBBNが69年5月に、ホストコンピュータとIMPの接続仕様「BBN Report No. 1822」を公開すると、NWGのメンバーはその実装に追われることになった。UCLAはIMPを8月30日に受け取り、電源を入れると自己診断プログラムを実行して稼働状態になった。UCLAが開発したホストとIMPを接続するインタフェース・ハードウェアも問題なく機能した。デュバルは、SRIのSDS940とUCLAのSDS Sigma-7を接続するために、Sigma-7をSDS940のダム端末に見せかけて遠隔ログインさせるプログラムを1ヶ月かけて記述した。
SRIは10月1日にIMPを受け取り、SRIとUCLAのIMPが約560kmの専用線で結ばれ、10月3日に接続実験が行われた。最初の実験は、UCLAのチャーリー・クラインとデュバルがIMPの保守用の電話機で連絡をとれる状態で、UCLAから「LOGIN」のメッセージを1文字ずつ送信することになった。デュバルがLの8進数表記の114とOの117を受け取ったことを電話で伝えた後にSDS940がダウンした。原因はデュバルのプログラムがGの文字でエラーを起こしたためで、かれはプログラムを修正し最初の実験を成功させることができた。
NLSの凋落
エンゲルバートは69年にNLSをテレタイプ端末で利用可能にすることを決め、さらに電子メールとジャーナル機能を追加することにした。ARCは71年に、NIC用にDECの大型コンピュータPDP-10を導入し、電子メールとジャーナル機能を利用し始めた。ただ、NLSをPDP-10に移植する作業が予想以上に時間と労力を費し、NICのサービス開始時期が大幅に遅れることになった。71年には、ビル・イングリッシュが精神疲労を訴えでARCを辞し、ルリフソン、デュバル、ベイツ、バクストンなどNLSの初期の開発メンバーとNWGの顔役だったメンバーが後に続いた。
NLSの電子メールはユニークなIDを自動的に割り当て、ジャーナル機能により送信したメールを読み出し専用ファイルに保存し検索できるように設計されていた。エンゲエルバートは強力な編集機能と画面共有が可能なNLSが記録と検索が可能なメールシステムとともに、ARPANETのユーザに広く利用されることを期待していた。しかし、外部の評価は低下していく。NLSには多くのコマンドがあり10時間ほどの学習が必要で、文書の階層構造が複雑で新規ユーザには馴染みにくいと評価された。また、56kbpsの回線では数度ホップすると応答速度は著しく低下した。
ARPANETを立ち上げARPA情報処理技術部長になったロバーツは、NICサービスの遅れを深刻視し、72年1月6日にSRIを訪れエンゲルバートの仕事に失望感を露わにした。ロバーツはNICのサービスのために助成したと考えていたため、NLSでNICのサービスを提供することに固執したエンゲルバートとの間に不和が生じた。
BBNがPDP-10のOSであるTENEX間で利用できる電子メールを72年4月に開発すると、ロバーツはメールに利用できるテキストエディタのTECOを記述した。これらのツールはネットワークを効果的に利用でき、ARPAの研究コミュニティで圧倒的な支持を得た。72年10月にARPANETを公式に披露するためにワシントンDCで開催された「コンピュータと通信の国際会議」では、会場からSRIのNLSにログインしてRFCなどの文書検索を行うデモも行われた。しかし、NLSはARPA研究コミュニティの関心を失っていた。
エンゲルバートは、ゼロックス・パロアルト研究所(PARC)にNLSを売り込もうとした。PARCの主力技術者のランプソンとサッカーは、エンゲルバートのビジョンに共鳴していたが、ユーザフレンドリーなシステムを目指し73年4月1日にAltoを完成した。Altoは、WIMPS(Windows、Icons、Menus、Pointers、Scroll-bars)と呼ばれるグラフィカルなユーザインタフェースを実現していた。画面上に複数のウインドウを紙のように重ねて表示でき、マウスでアイコン、メニュー、スクロールバーを操作できた。
74年1月にリックライダーがARPAに情報処理部長として戻った。国防省はARPA支援の研究者の目標と国防の関係を明確にするよう求め、ロバーツはこの難局にリックライダーに再登板を要請した。リックライダーは研究コミュニティの存続に腐心したが、エンゲルバートの支援は諦め74年末に助成を終了した。
SRIもARCへの予算を凍結したため、エンゲルバートはNLSを売却することを提案した。77年に電話回線会社のティムシェアが購入に同意し、かれも移籍した。エンゲルバートはティムシェアで、AUGMENTの名称で販売された統合オフィスオートメーション・サービスのシニアサイエンティストとして働いたが、研究開発予算は僅かだった。ティムシェアは84年にマクダネル・ダグラスの情報システム部門に売却された。