地形記録装置「プロファイル・トレーサー」の発明
ブッシュは大学1年の時に、積分器を応用して起伏がある地面の距離と形状を記録するプロファイル・トレーサー(Profile Tracer)を発明した。この地形記録装置は、自転車のようにパイプフレームの前後に車輪を配置して、その上に木製の箱を乗せたもので、後部のハンドルを芝刈り機のように押して歩く。
箱の中には緩衝器に吊された積分器があり、後輪と連動する回転ディスクと、ディスクと接して摩擦で回転する2つのローラーがあり、1つが上下動、もう1つが走行距離をペンでドラムに記録することができた。ブッシュはこの装置の特許を1912年に取得し、翌年にその論文で学士号と修士号を手にした。
ブッシュは23歳で修士号を得て、ゼネラル・エレクトリック社(GE:General Electric)の研究所で変電器を検査する仕事に就いたが、1年後にタフツ大学の数学講師の職を得て、1915年秋にマサチューセッツ工科大学(MIT:Massachusetts Institute of Technology)とハーバード大学が共同で運営していた電気工学部の博士課程に入った。
ブッシュは、送電に関わる微分方程式を代数式に変換する問題に取り組み、1年後の1916年4月に博士論文を書き上げた。この論文は学部長のデュガルド・ジャクソンに認められ、ブッシュはMITとハーバード大学の博士号を取得した。博士号を得たブッシュはタフツ大学の助教授に昇格し、1916年8月にフェーベ・クララ・デーヴィスと結婚した。この2人の間には、リチャードとジョンという2人の息子が生まれた。
ラジオの交流電源利用を可能にした放電整流管
アマチュア無線クラブの同僚ハロルド・パワーは、1915年にAMRAD社(American Radio and Research Corporation)を設立し、1916年3月18日に1日3時間の音楽放送を初めて行った。これは1920年に、ピッツバーグに世界最初のラジオ放送局KDKAが開局する4年前のことだった。
ブッシュはAMRADで真空管の研究を担当した。AMRADの事業は第1次大戦後に不振に陥るが、ブッシュと、主席研究員のチャールズ・スミスがAMRADで開発した放電整流管は、家庭の交流電源でラジオを利用できるようにした。アメリカン・アプライアンス社は1922年に整流管を事業化し、ブッシュは年5,000ドルの収入を得ることになった。この会社は1925年に、レイセオンに社名を変更した。