デジタル論理回路の誕生とENIACへの影響
ブッシュの微分解析機は、ペンシルバニア大学ムーア電気工学校、GE、英国のマンチェスター大学とケンブリッジ大学、英国空軍、アイルランド・ベルファストのクイーンズ大学、スウェーデンのオスロ大学、ロシアのレニングラードなどで相次いで製造された。
ブッシュはこれらの複製品の製作を奨励し、それによって微分解析機の設計が改善されることを望んだ。MITは微分解析機の開発を通して、軍や産業界を含む様々な研究機関と幅広い関係を樹立することができ、ブッシュは1932年、MITの副学部長兼工学部長に任命された。
1934年、ブッシュは計算問題の設定を簡素化するため、真空管を活用してスイッチボードでプログラムでき、第1世代の微分解析機よりも大規模な問題を高精度で解ける次世代機を構想した。
このマシンでは、これまで数日かかる場合があった計算問題の設定を、スイッチの開閉で行うことにより大幅に短縮し、積分器の円盤の動きをエンコーダで電気信号に変換し、サーボモータで出力装置を駆動する設計が採用された。ブッシュはそのマシンのコストを約7万ドルと見積もり、1935年にロックフェラー財団に提案、翌年に開発プロジェクトを立ち上げた。
クロード・シャノンとの研究
クロード・シャノンは1936年、ミシガン州立大学を卒業してMITの大学院に入り、ブッシュの研究助手になった。シャノンは、ロックフェラー微分解析機のスイッチボードのプロトタイプをリレーで設計するうちに、リレーで論理回路が設計できることを確認した。
そして、シャノンは1938年3月に修士論文として、「リレーとスイッチング回路の記号分析(A Symbolic Analysis of Relay Switching Circuits)」を書き、ブール代数による2進数の論理回路をスイッチで設計できることを示した。シャノンは、ブッシュがアナログ・コンピュータに電子回路を導入することを決めたおかげで、記号論理とスイッチング回路を結びつける機会を得、デジタル時代の到来を告げる理論を提示することができた。
ロックフェラー微分解析機は1942年になって、予定より2年遅れで弾道計算に威力を発揮し始めた。このマシンは、真空管回路とベル研究所が試作したクロスバースイッチにより、変数の入力や積分器の出力を柔軟にルーティングでき、5分ほどで計算式を設定できた。ロックフェラー微分解析機は、18個の積分器を統合し、約2,000本の真空管と150のモータ、約320kmの配線を使用した重さ100トンの巨大なシステムになったが、性能は1号機の3倍以上、精度は10倍(誤差0.01%以下)に向上した。
微分解析機は軍事利用へ
ペンシルバニア大学ムーア校のアーベン・トラビスは、1934年に2台の微分解析機を製作し、メリーランド州アバディーンの陸軍実験場とムーア校で弾道計算に利用した。トラビスは1939年の報告書「電子式微分解析機の開発可能性」の中で、クロック周波数を利用した電子カウンタ式の積分器について説明し、1941年の報告書「微分方程式の自動数値解析」には、微分解析機をデジタル化するための構成要素として累算器、乗算器、加算器、レジスタ転送装置による相互連結について記した。
トラビスは1941年夏、海軍に招集されてムーア校を去ったが、1938年からトラビスと交流していたジョン・モークリは、1941年9月、微分解析機より15倍から30倍高速な計算機が設計できると試算した。
モークリとJ. プレスパー・エッカートは1943年3月、アバディーンの陸軍実験場に電子式計算機の開発を提案した。ブッシュは大戦中には完成しないと予測し出資に反対したが、陸軍兵器局は50万ドルの開発資金を認可した。ENIACが最初の問題を解くために稼働したのは、太平洋戦争が終結した4ヶ月後の1945年12月であった。