ブッシュが主導した国防研究
科学研究開発局の創設
ブッシュは1938年、ワシントンDCの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの私設研究機関、カーネギー研究所(Carnegie Institution)の所長になり、国家航空諮問委員会のメンバーとして国防研究委員会(NDRC: National Defense Research Committee)の創設を提案した。
国家航空諮問委員会は、1940年にこの提案書を議会に提示する計画だったが、同年5月にドイツがフランスに侵攻した。ブッシュはNDRCの設立が急務になったと判断し、同じ委員会のメンバーで大統領の叔父のフレデリック・デラノを通じて、民間科学者を戦時研究に動員する重要性を訴えた。ブッシュはルーズベルト大統領に直談判する機会を与えられ、NDRCが設立された。
NDRCは大統領直轄の諮問機関のため、使える資金は限られていたが、ブッシュは1941年5月に大統領から科学研究開発局(OSRD: Office of Scientific Research & Development)の創設を認可された。
このディレクタに就任したブッシュは、議会により承認された予算を配分できる立場となり、国防研究の頂点に立った。ブッシュはまず、マイクロ波レーダーと電波で検知した標的の近くで爆発する砲弾の開発を重視した。これらを実現する基本的な仕組みは英国から米国にもたらされた。
軍事政策委員会議長に就任
ブッシュは、ルーズベルト大統領に軍事政策委員会の議長に指名され、最初の核兵器の開発を決断し、監督する立場にあった。彼は当初、核兵器の実現性には懐疑的だったが、1941年7月、コロンビア大学のイタリア人物理学者、エンリコ・フェルミから実験データと開発コストの算定方法を提示され、この問題に真剣に取り組むようになった。
そして、ユダヤ系アメリカ人物理学者で、「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマーが、1941年にサイクロトロンによって核分裂に必要なウラン同位体の電磁分離法の確立にめどをつけ、翌年12月2日にシカゴ大学が最初の核分裂の連鎖反応に成功すると、ブッシュは大統領を説得する役割を担った。
ブッシュは1941年から約6,000人の科学者を動員し、およそ200の兵器や装置の開発を監督した。中でも、レーダーと連動して敵機の軌跡を予測し、対空砲の照準と砲火のタイミングを自動化する装置をはじめとして、水陸両用車の開発、さらには化膿性および細菌性疾患の治療に有効なサルファ剤とペニシリンの量産技術の確立は、連合軍の勝利に大きく貢献した。
レーダーによる観測データに基づいて対空砲火を自動化するシステムは、戦後、SAGE(Semi-Automatic Ground Environment)と呼ばれる防空システムに発展し、史上初のオンライン・リアルタイム・コンピューティングを実現、インターネットを可能にするタイムシェアリング・システムの研究に影響を与えた。
情報検索システムの先駆け「Memex」
ブッシュは1945年3月、「科学ー終わりなきフロンティア(Science--The Endless Frontier)」を執筆し、政府による長期研究プロジェクトの支援と、若手の科学者とエンジニア育成の重要性を訴えた。
そして、ルーズベルト大統領に米国研究基金の創設を要請した。次いで、アトランティック・マンスリー誌の7月号(6月27日発売)に「われわれが思考するごとく(As We May Think)」というエッセイを寄稿し、必要な情報を瞬時に呼び出せる未来のマシンについて記した。ブッシュは実のところ、このエッセイを1944年10月に「機械化と記録(Mechanization and Record)」の表題で書き上げ、ドイツの敗戦後に出版することを希望して出版社に寄稿していた。
このエッセイに登場するMemexというマシンは、基本的にはデスク・サイズのマイクロフィルム・リーダー/ライターだが、フィルムに記録した情報は思考の道筋に沿って相互にリンクさせることができる。ブッシュによれば、人間は連想によって情報を整理するので、連想による検索経路の網目を再現できれば、忘れてしまった情報でも見つけることができる。
Memexは、機械化された私的なファイルと蔵書のシステムで、1台の机の上に半透明のディスプレイ、キーボードといくつかのボタン、レバーを備えている。文書や写真を透明のプラテンに置いてレバーを下げると、情報はマイクロフィルムに記録される。書籍はキーボードから入力したコードで管理され、キーをひとつ叩けばコード表がディスプレイに映し出される。
書物をディスプレイに表示してレバーを右に動かすと、本の各ページがひと目で判読できる速度で順番に現れ、さらにレバーを右に動かすと10ページずつ進み、レバーを左に動かすと頁が逆戻りする。