図形描画プログラムの開発
サザランドは1961年11月初めに、ライトペンで線を描くプログラムを記述し、T型定規や三角定規による作図をディスプレイ上で行えるようにした。このプログラムでは、直線を引いた後で、平行線や垂直線を加えることもできた。
12月初めにリンカーン研究所を訪れたシャノンは、サザランドのプログラムを見て、円を扱う必要性を指摘した。円は辺と接点が連続する閉曲線であり、解像度が低いディスプレイ上で円に見えるように表現することは難問だった。サザランドは円とともにリングの表現に取り組み、円と直線を交差させるプログラムを1962年2月に仕上げた。
サザランドはここまで、図形の操作に個別の方程式を適用して、サブルーチンのライブラリを作成していた。しかし、複数の図形を組み合わせて操作するには、制約条件を満足させる一般的な方法が必要になった。
スケッチパッドの誕生
彼はプログラムを記述し直すことにし、基本的な図形を自動的に描くプログラムを多数作り、それらをマスター図形としてライブラリ化し、そこから操作対象となるインスタンス図形を生成する方法を導入した。こうして、同じマスター図形から生成した多数のインスタンスの入れ子図形を描画することが可能になった。この描画プログラムは、1962年5月末にTX-2で動き始めた。
サザランドは、1962年にサンフランシスコで開催された春期合同コンピュータ会議の中の、ダグラス・エンゲルバートが座長を務めた「人間と機械の連携」分科会において、スケッチパッドと名付けたプログラムを非公式に紹介した。
この会議は対話型グラフィクスを話題にした初めての会議で、サザランドはこの分野の一流の学者に自分の研究をスライドで披露し、参加者との討論を通して、図形のコピーや2つの図形の結合など数多くの示唆を得ることができた。MITの音響心理学者J. C. R. リックライダーはこの時、サザランドの才能に深い感銘を受けた。
オブジェクト指向言語の出発点に
サザランドはその後、位相幾何学的に図形を変化させる方法を検討し、1962年6月9日に全ての図形および図形の特定の部分に汎用関数が適用できることに気づいた。再帰的な手法を用いれば、どのような図形の部分でも移動したり削除できた。
この方法を追求することによって、個々の図形を操作するサブルーチンの記述が不要になり、少数のプログラムに最大限の効果を発揮させることができた。サザランドは、1962年の夏の終わりに、格段に強力なスケッチパッドを、TX-2のユーザに評価してもらうために配布した。
この段階になって、リンカーン研究所のプログラマ、レオナード・ハントマンが、スケッチパッドで磁気テープ装置とプロッタが利用できるようにし、プログラム全体を整理する役割も担った。サザランドはハントマンの助力により、博士論文のためのアプリケーションに専念できるようになった。スケッチパッドは、1,024 X 1,024ドットの7インチの画面を窓のように使い、その2,000倍のスペースに描画することができた。
コンピュータ・グラフィクスの時代の到来
サザランドは1963年1月7日に、「Sketchpad: A man-machine graphical communication system」を提出し、同月に博士号を取得した。サザランドは1963年5月にデトロイトで開催された春期AFIPS学会(American Federation of Information Processing Societies)の「コンピュータ支援設計」分科会で、ステーブン・クーンスとダグラス・ロスの両教授に続いて講演する機会を与えられ、コンピュータ・グラフィクスの時代の到来を告げた。
スケッチパッドはTX-2のアセンブラで記述され、他のコンピュータでは実行できなかったが、プログラムを「もの」として扱い、相互に階層づけるサザランドの手法は、アイコンを使うGUI(Graphical User Interface)設計の基本となり、オブジェクト指向言語の出発点となった。