物理学博士号を得てコンピュータ科学者に
フェルナンド・コルバトは、1926年7月1日にカリフォルニア州オークランドで生まれ、ロサンゼルス近郊の高校を卒業して17歳でカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に入学した。しかし、すぐに海軍に徴用され、駆逐艦でレーダーやソナーの保守要員として働いた。戦後はUCLAには戻らずにカリフォルニア工科大学(Caltech)の物理学部に入学し、51年にマサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院に進んだ。
コルバトは、物理学教授フィリップ・モースの研究助手の仕事でパンチカードマシンを経験し、MITで開発された真空管コンピュータWhirlwindを利用する機会に恵まれた。かれは、Whirlwindで分子物理学のエネルギー計算を行ううちに、コンピュータへの関心を強めこの分野の先端知識を学ぶようになった。55年春にIBMがMITに科学技術計算向けの大型コンピュータIBM 704を寄贈することを提案し、新設される計算センターの責任者にモースが任命された。コルバトが56年に博士号を取得すると、モースは計算センターの運営を任せた。
コルバトが実質的に管理していたMIT計算センターに、人工知能の研究者ジョン・マッカーシーが57年9月から1年間の研究員としてやってきた。マッカーシーは48年にCaltechで修士号を得て、51年にプリンストン大学で博士号を取得し、スタンフォード大学の数学講師を経てダートマス大学の助教授になった。そして、人工知能の最初の研究会を56年にダートマス大学で開催し、新しい研究領域を切り開こうとしていた。ただ、ダートマス大学ではコンピュータを利用できず、スローン財団に助成を申請し1年間MIT計算センターで研究する機会を得た。
マッカーシーは当時、FORTRAN(FORmula TRANslation、フォートラン)で再帰が可能なリスト処理を実現するためにIBMの研究者と共同研究を行っていた。かれは58年春に、ハーバード大学からMITに移籍したマービン・ミンスキーとともに、MIT電子研究所(RLE、Research Laboratory of Electronics)に人工知能研究を立ち上げることを提案した。RLE所長ジェローム・ワイスナーは同意し、マッカーシーは58年9月に通信科学の准教授としてMITに移籍した。
タイムシェアリング・システムの提案
マッカーシーはIBMで、割り込みを利用して複数のユーザが1台のコンピュータを共有するタイムシェアリング・システム(TSS、Time-Sharing System)の可能性を学んだ。かれは人工知能のプログラミングには対話型のコンピュータが不可欠と考え、TSSにより高価なコンピュータを多人数で有効活用できると期待した。
マッカーシーは、IBM 709がMITに寄贈されることを知り、59年1月にモースにIBM 704をTSS用に改造することを提案した。IBM 709は割り込みと多数の周辺機器を管理できる入出力サブプロセッサ(チャネル)を備えた最初のコンピュータで、このマシンのCPUはメインフレームと呼ばれるようになった。モースは旧型マシンで新しい利用法を実現することに同意した。
コルバトは、TSS用の入出力端末を実現するために、穿孔テープ装置のFlexowriterを改造したが、IBM 704向けにIBMが用意することに同意した割り込み制御装置を1年以上待つことになった。マッカーシーは61年1月にTSSを「情報ユーティリティ」という言葉で表現し、将来電話と同じような公共サービスとしてのコンピューティングを実現する手段になりうるので、MITとして開発に取り組むべきだと提言した。この提言により、マッカーシーはMIT創立100周年記念講義の1つを担当することになり、MITの幹部の関心を引くことになった。
マッカーシーの記念講演が契機となって、MITの最上層部はモースと情報理論研究者のロバート・ファノをメンバーとする「コンピュータの未来に関する長期計画委員会」を設置し、その下部組織としてマッカーシー、コルバト、ハーバート・ティーガー、ダグラス・ロス、ジャック・デニスなど若手のコンピュータ研究者のグループが形成された。