ハーバードで脳の研究に着手
リックライダーは戦後、ハーバード大学で認知や脳のモデル化の研究に着手し、数学者のノーバート・ウィーナーやクロード・シャノン、そして神経生理学者ウォーレン・マッカローやドナルド・ヘッブの研究に大きな影響を受けた。
リックライダー、ジョージ・ミラー、ウィリアム・マクギルら、音響心理学研究所の同僚たちは、「情報」こそが脳の本質であり、通信、計算、制御という機能的側面をまとめ上げる概念になると考えた。彼らは脳の役割を、情報を獲得して伝達し、変換する器官と考え、その後「認知心理学」や「認知脳科学」として知られる研究領域を切り拓こうとしていた。
しかし、ハーバード大学の心理学部では、旧来の行動主義が幅をきかせ、彼らは非正規教員として薄給に甘んじていた。1950年になって、MITに移籍したベラネクから誘いがかかった。ベラネクは通信工学の助教授になり、リチャード・ボルトと音響研究所を創設していた。リックライダーは1950年2月1日、MITに移籍した。
国防プロジェクトでライトペンを開発
旧ソ連が1949年8月に最初の核実験を行ったが、国防省は同年12月に、MITの物理学者ジョージ・ヴァレイに、防空能力を調査し強化策の提言を求めた。ヴァレイは委員会を編成し、1950年1月の暫定報告書で、全米に新型のレーダー網を形成し、すべての基地を高度な通信システムで接続し、コンピュータで情報を処理することを提言した。1950年10月に最終報告書がまとまると、空軍は12月に、MITにコンピュータを活用した防空システムの実現を求めた。
リックライダーは1951年2月に、この防空システムの青写真をまとめる20人のメンバーの1人に選ばれた。このプロジェクトにはコンピュータが不可欠だったが、1951年4月20日に、Whirlwindというコンピュータが、2台の戦闘機を追跡するレーダーの情報を繰り返し処理して、迎撃機に位置情報を伝える実験に成功し、1951年8月にリンカーン・プロジェクトが発足した。
リンカーン・プロジェクトは、コンピュータと装置と人間が一体となってシステムを成す。レーダーのオペレータは膨大な情報を扱いながら、他の装置のオペレータと協業して、対空砲火や航空機の発進を指令する。ミスが重大な結果を招きかねない。ここで、人間と装置が相互作用する状況を研究する心理学者が必要になる。リックライダーは、レーダー・ディスプレイの開発グループの共同ディレクタに任命された。
リックライダーは、ミラーとマクギルを含む12人の心理学者の研究グループを編成し、Whirlwindの設計者の1人、ロバート・エヴェレットが開発したライトガンを、ライトペンに洗練する研究に取り組んだ。レーダーのオペレータは、画面上で飛行物体の位置情報を正確に捉えて、コンピュータに入力する手段を必要としていた。当初はジョイスティックで画面上を移動する物体を追っていたが、ライトペンは、画面上の光点の場所を光電素子で検出し、ボタンを押すだけで位置情報をコンピュータに入力できた。
レーダー基地ネットワークの構築
ベラネクとボルトは、1948年から映画館などの音響問題のコンサルティングを行うようになり、ニューヨークに新築される国連ビルの音響設計に取り組むことになった。彼らは同年11月に、「ボルト・ベラネク」という合名会社を設立した。1950年に建築士のロバート・ニューマンが加わって、「ボルト・ベラネク・アンド・ニューマン(BBN:Bolt Beranek and Newman)」になり、1953年にベラネクを社長とする株式会社になった。
リックライダーのプロジェクトは、1952年にリンカーン研究所に名称が変わり、翌年夏に、MITからボストン郊外のレキシントンに施設を移転した。1953年12月にマサチューセッツ州ケープコッドで行われた実験では、48機の航空機のレーダー情報をWhirlwindで同時に処理することに成功した。
ここからIBMとロサンゼルスのSDC(System Development Corporation)により、全米22ヵ所、およびカナダ1ヵ所の計23ヵ所のレーダー基地のネットワークを形成するSAGE(Semi-Automatic Ground Environment、半自動式防空管制組織)プロジェクトが始まった。
SAGEの構築が始まると、ベラネクはリックライダーにBBNで働くように説得した。リックライダーは1957年6月30日に、MITを辞してBBNで音響心理学の責任者になった。彼はBBNに音響心理学研究所を開設し、1958年に自分の学生だったトム・マリル、ジェリー・エルキンドをBBNに誘った。