PDP-1との出会い
プログラミングを学ぶ
マリルはリックライダーに、リンカーン研究所の同僚エド・フレドキンを紹介した。フレドキンは空軍のプログラマとしてリンカーン研究所で働いていた。彼はLiberascope LGP-30というコンピュータを購入して、プログラミングの仕事をすることを望んでいた。
フレドキンと会ったリックライダーは、コンピュータを完全に理解しているこの青年に強く惹きつけられ、3万ドルの購入資金についてベラネクを説得し、フレドキンを採用した。
LGP-30は真空管式の対話型コンピュータで、16進数でプログラムすることができた。このマシンは極めて低速だったが、リックライダーのグループはフレドキンからプログラミングを学んだ。1959年の夏に、DECを創業したケン・オルセンがリックライダーを訪ねて、新しいコンピュータを1ヶ月間試用する気があるか打診した。PDP-1と名付けられたコンピュータは、同年秋にBBNに届いた。1秒間に10万の加算を実行できるマシンで、LGP-30より1,000倍以上速かった。
エルキンドは、PDP-1の試作機がBBNに到着した頃、IEEEの前身のラジオ技術者協会から「電子技術における人的要因」に関する技術誌の編集を引き受けた。エルキンドは、コンピュータと人間の未来をテーマにした原稿をリックライダーに依頼した。リックライダーとフレドキンは、PDP-1を1ヶ月間試用して感銘し、BBNに15万ドルの拠出を要請し、11月にPDP-1の1号機を発注した。
DECは翌月、ボストンで開催された東部合同コンピュータ会議で、PDP-1を12万ドルで発表した。リックライダーは1960年1月13日に、「人とコンピュータの共生(Man-Computer Symbiosis)」と題された原稿をエルキンドに手渡した。この原稿は同年3月に出版され、その後の4半世紀にわたるコンピュータと人間の関係を予言することになった。
人とコンピュータの共生
現在のWebの世界を予見
「人とコンピュータの共生」は、異なる能力をもつ人間とコンピュータが、互いに補いあって、長所を統合することを指していた。リックライダーは、戦場における作戦行動にコンピュータを活用できるかどうかを考えて、人間の思考にリアルタイムに反応できない限り役に立たないと認識していた。
人間は問題を明確に整理して、プログラムを組み立てるまでに2日かかり、その翌日にコンピュータが数分で処理した結果を6メートルの長さの紙で受け取る。これでは実戦では使えない。人が思考するための時間の85%は、情報を探し考える態勢を整えるために費やされ、熟慮する時間より遙かに長い。問題を明確にし情報を検索する段階で、人とコンピュータが共生関係を築けば、思考のプロセスは進化する。
高速なコンピュータは高価だが、多くのユーザーが時間単位で分けあえば、経済効率を向上できる。情報検索の機能が高度化すれば、図書館の機能をも併合した「シンキング・センター」を構想でき、数多くのセンターを高帯域幅の通信回線で相互に接続できる。ユーザーは有料の回線サービスでセンターを利用し、巨大なメモリと複雑なプログラムのコストを分かち合える。
リックライダーは、人々がグラフィカルな操作環境を備えた対話型ワークステーションと、地域的に分散した情報センターを利用し、オンライン・コミュニティでコラボレーションの輪を広げる世界像を描いた。彼は、前述のSAGEという史上初のオンライン・システムの構築に関わり、実戦という過酷な状況で活動する人間に資するコンピュータの役割を考え、ビジョンを形成していった。オンラインのシンキング・センターは、検索エンジンで利用するWebの世界を予見していた。
西暦2000年の図書館で果たすコンピュータの役割
BBNは、タイムシェアリング・ビジネスの可能性に触発されて、PDP-1を2台追加発注することにし、DECに3,000ドルを上乗せしてタイムシェアリングOSの開発を要請した。1960年初めにPDP-1の1号機がBBNに導入されると、45歳のリックライダーは毎夜、PDP-1でプログラミングに取り組んだ。そして、英語学習プログラムを記述して、息子と娘がコンピュータの虜になることを確かめて、値段さえ安ければコンピュータは誰にでも恩恵をもたらすと確信した。
リックライダーは1961年11月、図書館評議会から、コンピュータが西暦2000年の図書館で果たす役割を描くように委託され、PDP-1で自動図書館のデモ・プログラムを作成した。この研究のリックライダーの報告書は、「未来の図書館(Library of the Future)」の書名で、MIT Pressから1965年に出版された。リックライダーがBNN在籍中に行ったコンピュータ投資は、後にBBNがARPANETの基盤技術を開発する礎となった。