インターネットの起源「ARPANET」の実現
ARPA情報処理部のチーフ・サイエンティスト、ローレンス・ロバーツは1968年6月、カリフォルニア州立大学のロサンゼルス校とサンタバーバラ校、SRI、ユタ大学の4ノードで、ARPANETを1969年9月に立ち上げる方針を発表した。
リックライダーは、MITをARPANETに接続する責任者だったが、MulticsはARPANETの立ち上げに間に合いそうになかった。リックライダーがBBNで創始したコンピュータ事業は、この頃までにARPANETに必要な技術開発・提供において重要な役割を担うようになり、遠隔コンピュータ通信を可能にするIMP(Interface Message Processor、パケットのスイッチングを行う装置)を開発していた。リックライダーは1970年の春に、IMPをを受け取ってPDP-10に接続し、ARPANETの6番目のノードを立ち上げた。
この段階のARPANETのコンピュータは、IMPを介して接続しても、通信プロトコルが未完成で、手軽にデータを送受信できるわけではなかった。プロトコルの仕様の完成予定は1971年夏だったが、異なるアーキテクチャのマシンに実装するまで、相互通信できる確証はない。ダイナミック・モデリングを研究していたアル・ヴェッザは、1971年10月に通信プロトコルの実装担当者がテクノロジー・スクウェアに集まり、1週間かけて各コンピュータの接続実験を行いながら実装コードを検証することを提案した。
リックライダーはこの提案をもって、プロジェクトMACのディレクタを辞任し、接続実験の監督をフレドキンに託した。この接続実験はテクノロジー・スクウェアの2階にあったダイナミック・モデリングの研究室で行われた。1972年10月にワシントンD. C.で開催されたICCC(International Conference on Computers and Communications)でARPANETは公に披露され、リックライダーがネットワークの社会経済的意義を語る16ミリフィルムが上映された。リックライダーは、テクノロジーがどのように人間の生活に織り込まれていくのかを語ることができる数少ないビジョナリであった。
再びARPAへ
研究プロジェクトの再編を手がける
ARPANETの立役者ロバーツは1973年5月に、BBNが設立するネットワーク事業の子会社Telenetの社長になるため、ARPAを辞任すると公表した。ARPAはリスクが高い研究開発に多大の資金を投入できる数少ない政府機関だったが、国防目的に適う研究であることを明確に示すことが求められるようになった。ロバーツの後任の人選はこうした中で難題になり、リックライダーに再度依頼するという案が浮上した。ロバーツは同年夏に、リックライダーを説得して、1974年1月に情報処理部長になる承諾を得た。
58歳になっていたリックライダーは、慢性的な喘息から吸入器を手放せず、手が常に震えるパーキンソン病の症状をみせていた。彼はベテランの陸軍大佐の補佐を得て、煩雑なペーパーワークに忙殺されることはなかったが、ARPAコミュニティの研究目的とロードマップを明確にすることを要求され、それらの研究成果がどのように国防目的に合致するのかを問われた。
リックライダーは、とりわけARPAが10年間で5,000万ドルを支出してきた人工知能の研究支援の存続に腐心した。彼が支援を開始したスタンフォード大学の人工知能研究所は、1960年代末に最初のエキスパート・システム「Dendral」を開発し、1970年代には「Mycin」を開発、1980年代の商用エキスパート・システムを基礎づけた。
リックライダーは、エド・ファイゲンバウムに、エキスパート・システムの技術を潜水艦攻撃や指令管制にも応用するように働きかけ、人工知能技術の有用性をARPA局長に示すことができた。しかし、リックライダーは研究コミュニティの存続に努力し続けたが、支援を打ち切らざる得ないプロジェクトも多かった。彼は1975年9月、プロジェクトの再編を終えてMITに戻った。
MITに戻った晩年
リックライダーは、MITでコンピュータ・サイエンス学部の教授として、ダイナミック・モデリングの研究に戻り、70歳になった1985年に退職したが、その後も名誉教授としてテクノロジー・スクウェアで研究を続けた。同年10月4日にMITで開催された退職ディナーには300人もの人々が集まり、リックライダーの功績と思い出を述べた。その後リックライダーの体力は次第に衰え、喘息とパーキンソン病の症状も悪化した。
リックライダーは1990年6月の初めに自宅の2階で倒れ、マサチューセッツ州アーリントンのシムズ病院に運ばれた。リックライダーの脈拍はなく、彼は病院の緊急治療室でようやく息を吹き返した。意識は戻らなかった。酸素吸入、脳波測定、点滴による栄養補給を行う器具がリックライダーの体に装着された。脳死の法的基準は満たしていなかった。リックライダーは、意識を取り戻すことなく数週間生命を維持したが、1990年6月26日の火曜日に帰らぬ人になった。享年75歳だった。
参考文献
・M. Mitchell Waldrop ”THE DREAM MACHINE: J. C. R. Licklider and the Revolution That Made Computing Personal” VIKING published by the Penguin Group
・西垣 通「思想としてのパソコン」NTT出版 1997 所収「ヒトとコンピュータの共生」
・”In memoriam: J. C. R. Licklider, 1915-1990” DEC System Research Center, August 7, 1990 (c)IRE (now IEEE) 1960 “Man-Computer Symbiosis” is reprinted, with permission, from IRE Transactions on Human Factors in Electronics, volume HFE-1, pages 4−11, March 1960. (c)Science and Technology 1968 “The Computer as a Communication Device” is reprinted from Science and Technology, April 1968.
・Tom Van Vleck「The IBM 7094 and CTSS」http://www.multicians.org/thvv/7094.html 18 Dec. 1997
・Tom Van Vleck「MULTICS History」http://www.multicians.org/history.html 、08 Oct. 2001