普遍的なネットワーク社会の実現に
踏み出したARPANETの創始者
ジョセフ・カール・ロブネット・リックライダーは、1960年に「人とコンピュータの共生」を執筆して情報化社会を予言し、1962年に国防省高等研究計画局(ARPA)でインターネットの前身となるARPANETのプロジェクトを創始した。彼がARPAに在籍したのはわずか1年9ヶ月だったが、年間1,000万ドルの予算で形成した研究者のコミュニティは彼のビジョンを継承してARPANETを完成させ、ネットワーク社会の実現に貢献し続けた。
リックライダーは、1960年代から1970年代にかけて、情報処理技術がどのように人間の生活に織り込まれていくのかを語ることができた数少ない人物であり、ソフトウェアがネットワークから利用できるサービスになる時代の到来を、最も早く予言したビジョナリであった。
実験心理学との出会い
リックライダー家の遠い祖先は、独仏国境沿いのアルザス・ロレーヌから米国に渡り、南北戦争(1861-1865)以前からミズーリ州に居住してきた。父親のジョセフ・リックライダーは、ミズーリ州中部のシダリア(Sedalia)近郊の農家の息子だったが、12歳の時に父親を亡くし、セントルイスに住まいを移した。鉄道で働き家計を支え、妹が大学を卒業するまで学費の面倒をみた。
ジョセフは次いで広告代理店で、コピー・ライティングやデザインを学んだ。そのスキルを身につけると、ジョセフは保険のセールスマンになって頭角を現し、後にセントルイスの商工会議所の会頭に選出された。ジョセフは42歳の時に、34歳の独身女性マーガレット・ロブネットと結婚した。J. C. R. リックライダーはこの夫婦の1人息子として、1915年3月11日にセントルイスで生まれた。
リンドバーグが大西洋の横断飛行に成功した時、12歳のリックライダーは模型飛行機づくりに熱中し始め、次いでポンコツ自動車を分解して構造を理解した。彼は16歳の誕生日に運転免許証をとり、ポンコツ自動車を修理して運転するようになった。高校生のリックライダーは、テニスプレーヤーとしても頭角を現し、大学在学中も対抗試合に出場した。
リックライダーは、セントルイスのワシントン大学に入り、最初芸術学を専攻したが、すぐに工学部に移り、次いで物理学、さらに数学に専攻を変えた。大学2年を終える頃、横領事件で父親の保険会社が倒産する。学費が払えなくなったリックライダーは休学して、自動車修理工場で働き、大学の心理学部の実験動物を飼育する仕事もした。
実験心理学の研究者は、動物の頭に検知器をとりつけ、刺激に対して神経を伝搬する電気信号を調べていた。リックライダーは、脳をシステムと捉え、様々な機能の解明に数学、物理学、電気工学の知識を使うこの学問に惹きつけられ、1年後に復学した。
リックライダーは1937年に、数学、物理学、心理学の3つの学位を得、さらに1年かけて心理学の修士号を取得した。1938年には、ニューヨーク州北部のロチェスター大学の博士課程で、聴覚に関する脳機能の研究を始めた。彼は博士論文で、聴覚皮質で活動するニューロンの最初の地図をつくり、音の周波数を識別する領域を特定した。
音響心理学研究所での研究
リックライダーは1942年に博士号を取得し、同年春にハーバード大学が戦時研究のために音響心理学者を募り始めたことを知って応募した。彼は心理学者スタンリー・スティーブンスの面接を受け、1942年の夏に音響心理学研究所に入った。
陸軍航空隊では、パイロットが騒音で交信できず、極度に疲弊することが問題になっていた。ハーバード大学で音響学の博士号を取得した物理学者レオ・ベラネクに、この研究プロジェクトの管理が委ねられ、電子音響研究所が設立された。ベラネクは陸軍に、音響心理学研究所にも出資するように進言した。音響心理学研究所は、騒音の実験を繰り返すため、ハーバード大学の敷地の外にあるメモリアル・ホールの地下に開設された。
リックライダーは、話し言葉を理解する過程を研究し、単語の子音を意図的に強調すると騒音の中でも伝わることを見いだした。この発見から無線通信の音声を、母音に対して子音を強調して伝える変換器が開発され、パイロットへの情報伝達は改善した。
リックライダーは1945年1月20日に、研究所の秘書ルイーズ・トーマスと結婚し、2人の間には長男トレーシーと長女リンダが生まれた。