DTSSの始動
カーツは63年に、GE-235とDatanet-30という2台のコンピュータと磁気ディスク装置を組み合わせた構成により、TSSが構築できることを確信した。Datanet-30は40の通信ポートを備えた通信用のコンピュータで、テレタイプ装置からユーザの要求を受け、GE-235に指示してディスクの通信用領域のメールボックスにユーザ情報と制御コマンドを書き込ませる。ユーザがプログラムを実行すると、Datanet-30はGE-235に割り込みをかけてコンパイルや浮動小数点演算を行わせ、計算結果と完了コードをメールボックスに入れ、Datanet-30がテレタイプ端末に結果を送信する。Datanet-30のOSはユーザプログラムを実行しないため、GE-235の障害の影響を受けることがなく、GE-235に障害が発生すると診断して復旧する役割を担うことができる。
ケメニーは64年1月になってNSF(National Science Foundation、アメリカ国立科学財団)から助成が認可され、翌月にGEのハードウェアを導入した。コンピュータはカレッジホールの地下に設置されたが、電力不足のため追加工事は必要になり3月に入って稼働し始めた。Datanet-30とGE-235のそれぞれのOSのコーディングを、学生のマイク・ブッシュとジョン・マックギーチーが担当し、カーツと数人の学生がGEのアセンブラの改良とエディタの開発に取り組んだ。また、かれらはケメニーが記述した最初のBASICコンパイラの改良も担当した。
学生たちは昼夜を問わず働き、64年5月1日午前4時に、2つのテレタイプ端末で2組のBASICプログラムを実行し、タイムシェアリングが機能していることを確かめた。その後5分ごとに起こる障害対策に追われたが、6月に入って運用できるようになり、ケメニーは11台の端末で教職員向けの講習を行った。
Datanet-30は1秒間に110回の割り込み処理に対応でき、GE-235はほとんどのユーザプログラムを4秒以内に処理することができた。ユーザはプログラムの入力と計算結果の確認と次のプログラムの準備に時間を費やすため、数十人が同時に使用していても、各ユーザは自分がコンピュータを占有しているように感じていた。
ケメニーは64年9月にテレタイプ端末を20に増やし、数学を選択した新入生を対象にプログラミング講座を開講し、学生が週あたり30分間TSSを利用できるようにした。このシステムはDTSS(Dartmouth Time-Syaring System、ダートマス・タイムシェアリング・システム)と呼ばれるようになり、65年1月に近郊のハノーバー高校にもテレタイプ端末が設置された。また、GEは65年8月に、DTSSでBASICを利用できるタイムシェアリング・サービスを開始した。
広域タイムシェアリング・サービスの先駆者
この当時大学で開発されたTSSとして、62年11月に稼働したMITのCTSS(Compatible Time-Sharing System、互換タイムシェアリング・システム)とカリフォルニア州立大学バークレー校で64年に完成したバークレーTSSがあるが、DTSSは2台のコンピュータを組み合わせて大幅に少ない開発工数で実用的なシステムを実現した。バークレー校のシステムは国防省高等研究計画局(ARPA)のプロジェクトで実現され、MITはCTSSに続くMulticsの開発をARPA支援で着手していた。
DTSSはNSF支援の初のTSSとして評価され、NSFはDTSSを拡張して大学のキャンパス全体と米北東部の大学や高校にもサービスを提供するための予算をケメニーに配分した。ケメニーはこの予算で計算センタを新設し、性能が高いコンピュータを導入することが可能になった。新システムでは、2台のDatanet-30と2台のGE-635メインフレームを組合せ、150人の同時ユーザが使用できるシステムを目指した。MITのMulticsではGE-635を改造した2プロセッサのGE-645を特注したが、DTSSでは従来の構成を継承した。
計算センタは66年12月に完成したが、GE-635の納入は67年秋になる予定だった。DTSSの処理能力は66年末に限界に達していたが、計算センタにGEのDTSSサービスを加えることにより、テレタイプ端末数を増やすことができた。GE-635は8桁の乗算を1秒間に10万回以上実行でき、2台のGE-635が720kB相当のコアメモリ、3.5MBの磁気ドラム、20MBのディスク装置16台を共有する構成になった。Detanet-30は電話会社の近距離電話網と長距離電話網に接続され、テレタイプ装置などから電話番号をダイヤルしてDTSSにアクセスする方式になった。
新しいDTSSではキャンパス内に150台以上の端末があり、1日に2,000人が利用することもあった。ケメニーとカーツは67年秋に近郊の高校の教師と生徒向けのトレーニングコースを開講し、DTSSの利用登録者は7,500人に急増した。NSFは67年末に米東北部の大学のコンソーシアムを形成し、各大学にDTSSのコピーを設置できるように助成対象を広げ、DTSSは50以上コピーされた。ケメニーは70年にダートマス大学の13代学長に就任した。
ケメニーは83年に米連邦情報処理学会の教育賞、86年にIEEEコンピュータ・パイオニア・メダルを受賞した。かれは90年にダートマス大学を退職し、92年12月26日に心臓発作で66歳の生涯を終えた。
DTSSは、遠隔ログインしてプログラムを入力し、その結果を得るだけのシステムであり、パケット通信に基づくコンピュータ・ネットワークを実現したARPANETの技術革新とは無縁だが、タイムシェアリングという利用形態をBASICとともに普及させ、コンピュータの大衆化に大きな足跡を残した。TCP/IPが成立してARPANETとNSF支援のネットワークが合流する以前に、理解されていたタイムシェアリング・システムはDTSSの流れであり、マイクロプロセッサが登場するとBASICが個人向けコンピュータ市場の立ち上げに大きな役割を果たした。